わたしから、あなたへ。

同じ文章でも、だれがだれに向かって言っているのか、「だれ」のところに代入する主格・目的格次第で、文章の印象ががらりと変わってくることがあるようです。


たとえば、


「わたしは、あなたを好きだった。これからもずっと、好きでいる」


という文(せりふ)があったとします。


これだけでは、だれがだれに言っているのかわかりません。


「だれ」の部分に、成人のおとこやおんなを代入してみるとします。すると、想像の余地はいろいろあるでしょうけれど、ただのありふれた恋愛物語のいちラインかのようにも思えます。


ここに代入される「だれ」が、犬や赤ちゃんだったらどうでしょう。かれらが、ふつうは人間のことばを明瞭に発話しない存在であるがゆえに、フィクション性をまとい、かえって想像力を掻き立てられる……そんな気がしないでもありません。もちろん「だれ」に入るのがおとなのおとこやおんなでも、広がる想像の世界はいろいろなんでしょうけれど。



僕は、よく自分にメモを書き残しています。たとえば、こんなことが僕のメモアプリの中から拾えます。


・こまめに連絡をとろう、自分とも


・余らなかったら、割愛されてもいいのか?  (余暇は、つくるものだ)


・いちばん楽しむ方法は、お客様にならないことだ(もてなされたら、負けだと思え)


・目の届くところにいる人を幸せにすることから、始めてみては?



自分から自分への覚え書きなので、あとで見てみると、説教くさいようなことだったり、「べき」論みたいなものだったりが多くて、恥ずかしくなることがあります。それを思い付いてメモに書きなぐった瞬間は、好奇心が一時的に満たされて高揚していたのかもしれません。


「だれかが、だれかに」言っている文章があったとして、その主格と目的格の双方に「じぶん」をあてはめてみると、急に視界がひらけたような感覚が得られたり、表現が深化して感じられることはないでしょうか?  豊かさとは、本質的には自己のなかにある……と、僕は思っています。



秋ですね。読んでくださり、ありがとうございます。