昼メシとひとりの時間

・カウンター席の天ぷら屋


昨日、カウンター席の天ぷら屋に行きました。注文した内容に従って、揚がったものから順次卓の上に供されます。お客は、目の前に次のものが加えられていくのを眺めながら、食べ進めていくことになります。日本由来のファーストフードって、こういうものなのかもしれないと思いました。同時に、西洋由来のファストファッション……てろてろのウインドブレーカーにジーパンにサンダルという、最高に不粋ないでたちで来てしまった自分に違和感がありました。この店と、この店における一連の体験は、「粋」なのです。僕は和服で来たら良かったと思いました。もちろん、和服なんて1着も持っていないのですが。そして、店側がそういったことを客側におしつけるようなこともありません。



・食べたら、出なきゃ


カウンター席でひととおり天ぷらを楽しんだら、「食べたら、出なきゃ」という気になりました。この感覚は、ラーメン屋さんでラーメンを食べ終えたときの感覚と似ています。あとに続くお客や、(僕にしてくれたのと同じように)彼らに対してお商売をする店側への配慮です。それが粋だと思う感覚が、どこかにあるのでしょう。



・ラーメン屋さんの思い出


いろんなラーメン屋さんに行きましたが、その記憶がからだに刻まれているお店は、結局僕の場合は、自宅から自転車で行ける範囲にある数店です。ラーメンはもちろんうまいのですが、きれいにしているけれども脂っぽい店内の床や壁の質感だったり、店員さんとのコミュニケーション(あるいはコミュニケーションのなさ)や彼らとの距離感だったり、満足して自転車で帰る道のりだったり、ラーメンの前後にある体験も含めてからだに刷り込まれているお店に、僕は感謝しています。営業してくれてありがとう、と思っています。



・昼メシとひとりの時間


昼によく利用するハンバーガー屋があります。職場の最寄り駅のビルの1階にある店で、ロータリーに面したカウンター席に座って顎を動かしていると、いろんな考えが浮かんできます。連想が続いたり、飛躍したり、思考を楽しむ時間でもあるのです。これがひとりじゃなかったら……だれかと連れ合って来ていたとしたら、こうはならないでしょう。同じカウンター席でも、ラーメン屋さんのカウンターで過ごす時間とはまったく異質なものです。店、ラーメン、おれ(客)という、ある種のストイックな関係はありません。ハンバーガー屋のカウンター席で過ごす時間は、良い意味で、しがらみから切り離されて「ひとりになれる」のです。「点」になれる場所、というイメージです。



・ぼくは基本、家族になった


ここ数年の僕は、家族単位での行動が基本になりつつあります。そうすることが、家族との快適な関わり合いにつながることを最近では特に実感しています。生活のあらゆるシーンをなるべく家族と共有しながら、うまいこと自分の時間をつくって「ひとりになる」ことで、最近の僕は自分のバランスを保っているように思います。


長いこと基本が「ひとり」だった僕は、家族と住んでいても、とにかく「ひとりの時間」を確保することに躍起になっていました。しかし、家族との「生活シェア」をないがしろにして得る「ひとりの時間」は、過ごしていてもどこか落ち着きがありません。悪いことをしている気がして、焦りすら感じることもありました。


自由と協調は、お互いを保障しあっているのだと思います。