極めて極(きわめてきょく)

あるものを見たとします。自分の方を向いている側面が、見えていると思います。同時に、自分と反対側を向いている側面があるはずです。見えていないほうは、どんなかたちをしているのでしょうか。見えている側面と地続きで、一体のものとして考えると、見えていない側面の様子が予想できるかもしれません。


ただ、実際は思いもしないかたちをしているかもしれません。こちら側にゆるやかなカーブを見せているからといって、見えていない側にまでそのゆるやかなカーブが続いているとは限りません。「あちら側」は、断崖絶壁かもしれない。実際の様子は、そちらが見える位置関係にならないことには、確認できません。


「見えているほう」に、いろんなものをあてはめることができると思います。「生」かもしれませんし、「善」かもしれません。「有」とか「在」とか、抽象的なものほど考えがふくらみます。


こちらを向いている方だとか、あるいはその逆側に対して、名前が与えられていることがあるようです。ある方を極としたときに、その対極となる方にも名前が与えられることがあるでしょう。「生」を一方の極としたならば、「死」がその対極かもしれません。もともと不可分で一体のものがあって、たまたまだれかが認知した方を極として、名前をつけただけなのです。どこか別のところを極としたとき、それに対応する極があらわれます。たまたま出っ張っていたとか、そのときにこちら側を向いていたとか、そこが極として選ばれて名付けられたいきさつがあるかもしれません。そうしたいきさつが、ひとりひとりにあって良いでしょう。極を決めなければ、対極はあらわれません。


磁石のS極とN極は、ひっつこうとします。同じ極性のものがひっつきあって一体になろうとする様を描いたら、究極のフィクション作品ができるかもしれません。極端な道を行ったら、極道でしょうか。秘密を極めれば、極秘です。「極力、避けたい」といった場合、避けたいのか避けたくないのか……なんだかよくわからなくなってきました。「極の限り」だと思うと、迂闊に「極限」などとは言えなくなりそうです。


逸脱を極めた駄文を、読んでくださりありがとうございます。