僕がギターピックを持ち歩かなくなった理由

ポケットにギターピック


ずっと、ギターピックを持ち歩いていました。ギターを演奏する予定のあるときは持ち歩いて当然なのですが、そうでないときでも、ジーンズのポケットに忍ばせていました。いつでも「音楽」を肌身離さず持っていたい、という気持ちの表れだったのだと思います。「おまもり」みたいなものでしょうか。


「おまもり」について僕が思うのは、それを持ち歩くことによる精神的な効果です。科学的に立証できるかたちで、「おまもり」が災難を遠ざけたり、幸運を引き寄せたりするとは思えません。それを持っていることによって、所持者が安心できたり、もっといえばうれしくなれたりという気持ちの面での効果が大きいのでばないでしょうか。ですので、科学的に効果を立証できないものなんぞに気持ちを動かされることはないとおっしゃる人には、「おまもり」は必要ないでしょう。


「気持ち」「心のうごき」「精神的効果」といったものを、科学的に立証できないもののように便宜上語ってしまいましたが、現代においてはそういったものもかなり正体がわかってきているものと思います。ですので、「気持ち」も「心のうごき」も「精神的効果」も、実態として「ある」ものといえるのかもしれません。そうすると、「おまもり」も、一切の「気休め」といわれるような行いやモノの類いも、実態あるものによって実態あるものに影響を及ぼすものだ、といって差し支えなさそうです。



ピックがなくても、ギターが弾ける



最近僕がギターピックを持ち歩いていないのは、心が音楽から離れてしまったことの表れなのでしょうか。ギターピックをポケットに持ち歩いていたときも、最近の僕も、おなじくらい生活の中で音楽にふれていますし、演奏や歌唱も続けています。「ギターピックを持ち歩く」というおこないによって得ていた効果が、別のおこないに統合されたのかもしれません。


かつてピックを持ち歩いていたときには、「出先でギターに出会ったときにすぐ弾ける」というのを、持ち歩く理由のひとつにしていました。いつでも「ミュージシャンでいたい」という心を、「ピック」ひとつに託していたともいえそうです。


かつての僕より、最近の僕のレパートリーには「ピックを用いない」ものが増えました。指だけで弾くとか、そもそもギターではなくピアノで弾き語りをするとか、そういうレパートリーが増えたのです。単純に、僕のミュージシャン性が「ギターピック」に頼らなくなったというだけのことなのかもしれません。



風の通り道



僕たちは、心を左右するものを自分のそばに置く。仮にそうだとすると、心を左右するものが物質的でない場合……もうすこし精確にいいますと、「いちじるしく小さい」とか「物理的空間をほとんど必要としない」場合……、そうしたモノを置くための広い居住空間は必要ありません。あるいは「空気の通り道」として空けておくことができるでしょう。風流なものです。


モノが少ない方が、音はよく響きます。