いつもどおりの大衆

僕の父方の叔母さんとだんなさんは、札幌に住んでいます。親族メンバーのLINEのスレッドがあって、そこでいくつかのメッセージがやりとりされるのを僕は見ていました。北海道は停電したので、スマホの電池が消耗することを気遣って、叔母の実兄である僕の父は「返信は要らないから」と、トークメッセージに書き添えていました。


最近見た北海道の震災関連のニュースの中で、避難所に敷かれた布団に伏せながらラジオを手にしている男性の様子が映されていました。その男性がもともとスマホを持っているかどうか、持っていたとしたらそのスマホが電池切れになったかどうか、あるいはその男性がもともとラジオを聴く習慣があるかどうかは知りませんが、災害時には、普段何気なく使っているスマホも、電池が切れてあっけなく役に立たないものになる可能性があるという、すこしの想像力さえあれば簡単にわかるようなことでさえ、僕は自分に流れてこんでくる周りの景色から知ったのでした。



僕は音楽をやっていますが、今回の北海道地震の発生を受けて、「ではチャリティコンサートを開きましょう」ということもしていませんし、「復興を祈ってオリジナルソングをつくりました」ということもありません。これは西日本豪雨のときだってそうですし、もっとさかのぼれば、東日本大震災のときだって、僕は特別なことはなにもしていません。義援金を集金袋につっこむくらいのことはしていますが、普通のことです。


僕は自分のために音楽をやっています。ビジネスとしてやっているわけではないですし、僕個人が日々世界中で起こる悲しいこと、大変なことひとつひとつに言及しようがしまいが、誰も気にしません。(ほんとうは「誰も」ということはないかもしれませんが、少なくとも「お前はなんで黙っていられるんだ」「何もせずによく平気でいられるもんだ」などと直接メッセージを送ってくるような人はいません。)


いつもどおりにできる者がいつもどおりにしていることも、それなりの「発信」です。ですが、その「意図」は見過ごされがちです。「発信していない」と認識され、「気にもとめていない」とみなされ、「無視(無関心)かよ!」ととらえられてしまうことがあるようです。


極端な話をあえてします。

どこかで災害が起こったとします。


国中、世界中が手を挙げて被災地にあらゆる人が集おうとしたら、どうなるでしょう。ただでさえ深刻な交通麻痺は、より広範囲に及ぶかもしれません。


あらゆる人が、あらゆる発信方法で、被災に対する嘆きや反応を発信したとしたらどうでしょう。客観的な情報がなにも得られなくなってしまうかもしれません。



認知しておきながら冷静にしている・平静にしている大衆の上に、ほんとうの救いや支援が成り立つものと僕は思います。自分がその「大衆」のひとりであることに、僕はなんの負い目も感じていません。


「普通に過ごせている自分」の存在は、あらゆる人にとって不可欠なのです。