うるさい無響室

ただただ、うなずくしかないときというのがあります。その対極には、「それはね、(僕はこう思うよ)」といってすぐに反応したくなるとき、というのがあります。


「うなずくしかないとき」というのを、もう少しこまかくしてみます。


相手がとても真摯にものごとと向き合い、自身の経験を参照し、それをふまえて考え抜かれた結論を話してくれるとき、僕はただただうなずきます。


もしその先に、「僕もね、そう思うんだ。なぜならね、僕の身にもこんなことがあったから。それはね、……」と、話せる経験があるような場合は、最初のうなずきは「共感」に変わります。


ここで、自分の側に開示できるような「経験・体験」の持ち合わせがない場合、僕は打ちのめされたようにぼぉ~っとしてしまうことがあります。



相手の発したメッセージが、すぐに自分のなかに反響しないことがあります。そんなとき、僕のなかは、ごちゃごちゃとちらかっているのかもしれません。やりかけてほうりだされたままのものが、相手のメッセージを吸収してしまうのです。そんなとき、発してくれた相手に、こだまをかえすことができません。発した相手は、なんだか手応えのなさに物足りなさを覚えるかもしれないし、あるいは、反響がないことでこちらの存在を忘れてしまったり、ないものと思ってしまったりするかもしれません。



反響がなければ、そのこと自体が反響になりえます。ふつう、響くところ(空間)があれば、自然に反響、残響が感じられるはずなのです。それがないということは、メッセージを吸着してしまうなにかが、発した空間にごろごろと転がっている可能性を示しています。



「無響室」といって、音の反響や残響のない部屋があるそうです。そこに入った者は、不自然なまでの反響のなさに、違和感を覚えるそうです。



「無響室」とまではいえませんが、一般的な音楽スタジオの中でもかなり音のはね返りを抑えた(「デッド」と称されます。反対は、「ウェット」)程度の部屋になら、僕も入ったことがあります。音のはね返りがないことで、自分の鼓膜の内側からの圧力が外に向かってかかるような、違和感がしました。高山に持って上がった、未開封の袋入りスナック菓子のようなイメージです。あまり、気持ちの良い感覚ではありません。



相手がなにか、真摯なメッセージを発してくれているのはわかるのに、ときにそれが僕にとって読み解きづらい、自分のなかに響かせづらいことがあるのです。それはそれで、僕に「ん?」という違和感を与えてくれ、その違和感を動機に、僕は自分の中身を整理する機会を得るのかもしれません。反響がないことで「ん?」と思うのは、なにもメッセージを発した本人だけではないということに気がつきます。それを自分のなかに響かせられない、受け手の方も違和感なのです。



僕は、じぶんのなかのごろごろ物質たちに問います。



僕「おまえら、なに吸収したの?  ……いまから分解するから、ちょっと見せてみなさい」


ごろごろa「ひえぇ、わかりました。どうぞ、お手やわらかに……


ごろごろb「いやいや、おいらは、そう簡単に見せてたまるかってんだ!  なんの意味があって、おいらたちが今までここに転がっていたのか、わかっているのか?」


ごろごろc「そうだそうだ!  このぼんやりマスター!」



僕「(……〈無響〉も、結構うるさい)」