老いぼれて死ぬときに

老いぼれて、死ねたらいい。でも、老いぼれる前に死ぬかもしれない。


老いぼれて死ぬときに、あれもできた、これもやれた、と思って死ねたらいい。老いぼれて死ぬときに、あれもできなかった、これもやれなかった、では、すこしさびしい。


老いぼれて死ぬときに、あれもできた、これもやれたと思うか、あれもできなかった、これもやれなかったと思うかどうかは、どうやって決まるんだろう。


老いぼれて死ぬときまでに、やれることには限りがある。おなじ生年月日をもつ人どうしが、同じ没年月日をもつ運命になったとしたら、その両人が過ごした人生の時間は、ほとんどおなじ長さになるはずだ。そのときに、ひとりは「おれは、あれもやれたし、これもやれた」といって死んでいき、もうひとりは「おれは、あれもやれなかったし、これもやれなかった」といって死んでいったら、どうしよう。このふたりは、何が違ってそうなったのか。何が、最期のひとことを「分けた」のか。


失敗をしたとする。失敗は失敗だ。たぶん成功じゃないとその人が思ったから、失敗なのだろう。


ほとんどおなじにみえるおこないをしたふたりの人がいるとして、ひとりは「失敗しちまった」といい、ひとりは「失敗できた」と言ったら、どうしよう。ひとりは明らかに後悔していて、ひとりは少し、嬉しそうに見えなくもない。


老いぼれて死ぬときに、自分の人生を振り返れなかったらどうしよう。生きているうちに、振り返っておけばよいのだろうか。死ぬ瞬間は、一瞬かもしれない。恒久かもしれないけれど、死ぬ瞬間になってみなけりゃわからない。


老いぼれて死ぬときに、前を向いて死ぬのもいい。おれが死んだら、こうなるだろう、おれが死んでも死ななくてもこうなるだろうと、前を向いて死ねたらいい。




「いつか」「いまか」と、訊いてみる。

読んでくださり、ありがとうございます。