究極のひまつぶし

僕のいまのお仕事は、社会教育関連のものです。職場は、地方公共団体によって設置された「公共施設」であり、学習や教育活動のための施設でもあります。


正直、僕は今のこのお仕事に「いやいや」就きました。前のお仕事の雇用期限が満了してしまい、続けることができなくなったためです。


前のお仕事が補助的な業務内容だったこともあり、今のお仕事をはじめたばかりのときは、とてもつらくて嫌でした。今は、そうでもありません。


今の僕の職場である公共施設には、毎日、市民がやって来ます。彼らに対応する窓口業務も、僕らの仕事に含まれます。コミュニケーションを目的にやってくる人がいないとは言えませんが、ほとんどは用件を処理して終わりです。


社会教育的な事業を企画することも、僕らのお仕事です。これには、正解がありません。そのことが、おもしろさでもあるし、苦労でもあります。情報や資料を漁って、考えて、発想するプロセスに、マニュアルはありません。一連の業務は、好きでも嫌いでもなく、お金を得るためにやっています。効率よく大金が得られるものとはまったく違いますけれど、一連の「労」に金銭以外の価値を感じているために、従事を続けているのかもしれません。


お金を得ることを主たる目的としない自主的な活動として、僕は作詞作曲や歌唱・演奏の活動をしています。これを僕は、長いこと「好きだからやっている」と思っていました。もちろん、今でもそう思っていますが、必ずしもそれだけではないようです。


演奏の練習を反復するのは、つらいです。時間も体力も消耗します。作詞作曲の発想も、決してただではありません。代償にしているものがあるはずです。やっていて良かったと思える瞬間は、費やす時間や労力の総量に対して占める割合は、ごくわずかなようにも思います。


金銭が得られるわけでもなしに、僕はどうしてそんなことをするのでしょうか。


これは、究極のひまつぶしなのだと思います。


音楽をやっていれば、「生きられる」のです。


暇は、潰さないとなくなりません。暇を、労働というかたちでお金に換えて潰すのも良いでしょう。そうして得たお金を費やして、逆に暇を潰すこともできます。


生きるのをやめれば、暇を潰す必要はなくなります。生きる限りは、なんらかのかたちで暇を潰さざるを得ないのです。



生きるのが、好きですか?



そう訊かれたら、僕は困ってしまうかもしれません。受け入れているかといえば、もちろん受け入れています。決して嫌いでもありません。


生きることを受け入れる、その動機をくれるもの。それが、今の僕にとっての音楽なのだと思います。



暇を潰して読んでくださり、ありがとうございます。