枝葉の先の「永ちゃん像」

いつだったか、僕は実家でテレビを見ていました。画面に映されていたのは、いろんな有名人にまつわるエピソードを1分間で紹介する番組でした。


次々といろんなエピソードが放送されていくなか、あるミュージシャンのエピソードが紹介されました。そのミュージシャンが歌詞の中で用いる「おまえ」という単語が指すものは一体誰なのか?  という趣旨で、単刀直入に1分間で示されたその答えはつまり、「その人自身」なのだということでした。このとき紹介されたそのミュージシャンの名は、矢沢永吉さんでした。


このエピソードを、その後の僕が何度も思い出すことになるなんて、当時テレビの前にいた瞬間の僕は考えもしませんでした。


僕は、曲を書いて自演するという活動をしています。そのうえで、歌詞の中に登場する二人称に「自分自身」を重ねるというのは、ときにとても大事なことのように思っています。


僕は、幼い頃からピアノを弾いていました。母親がピアノ教室をやっていた影響で、あまり動機を意識することなく、音楽に親しんできたのです。成長して環境が変わる都度、僕はいろんな楽器にチャレンジしました。そのほとんどを、今でも続けています。


矢沢さんが紹介されたそのエピソードをテレビで観たのは、正確に憶えていませんが、ちょうど僕が高校生くらいのときだったように思います。32歳になった今でこそ、僕は音楽をやる動機、「誰に宛てて歌うのか」ということについて、自分自身が対象になる側面があることを重々承知しているのですが、そのことを示唆する描写を初めて自覚した体験が、あのとき矢沢さんが紹介されたあのテレビ番組だったかもしれません。


その番組を観てからというものの、僕は自分が歌ったり演奏したりする中で、その向き先を省みては「あぁ、僕は、僕に対してやっているんだ」と納得し、じんわりと自分の内側から湧き出る「あたたかさ」のようなものを実感したことは、1度や2度ではありません。


確か同じ番組内で、その日のうちだったか、別の放送日だったか忘れてしまいましたが、やはり矢沢さんが取り上げられたエピソードの中で、「アカ抜けすぎないこと」「イモっぽさの大事さ」みたいなものにフォーカスして伝える内容があったこともずっと記憶に残っています。これもまた、その後の人生で繰り返し咀嚼しては味わっていることです。


熱心なファンのようには僕は矢沢永吉さんのことをよく知りませんけれど、心の中に「永ちゃん像」を持っているのは確かです。



水や空気の分子みたいに拡がって、流動しながらも一定期間「個」としてとどまりつづける……そんなところに、人間の姿を見た気がします。