お願いしてでもやりたいか

お願いごとをして、ことわられたことがあります。きっと、先方にとって、「その提案は、こちらからお願いしてでも実現させたい」というものではなかったから、そのときことわられたのだろうなと、今になって振り返って思います。


僕自身のほうにだって、お願いごとをされて、ことわったことがあります。それもまた、「こちらからお願いしてでも実現させたい提案だ」と思えなかったからなんだろうなぁと、自分を省みて思います。


ことわったりことわられたり、引き受けたり引き受けてもらえたりしたことをあとになって見つめてみたとき、おおむねこれらの「お願いされる側としてもやりたいことだったかどうか」に則った決定がなされてきていることがよくわかります。


たまに、判断に悩んでしまうようなときもあります。「気持ちとしてはやりたいけれど、現実的な事情をかんがみて代償となるものをはかりにかけたとき……ウーン、なんともいえない」というようなことが、僕のような者にでもあるのです。


この現実的な事情(代償)のところにあてはまることが多いのは、僕の場合は「お金」かもしれません。「うーん、その飲み会、行ったらたのしいだろうけど、会費〇〇円払ってでも行きたいかどうかと言われたら、そのお金をつかって(あるいはつかわずに)自発的に考えたたのしいことをして過ごしたいかも」なんて思うことはしょっちゅうです。「飲み会の参加の可否を決めるプロセス」では、例があまりに貧弱かもしれませんが……


お金をつかってサービスを受けて時間をすごすというのは、とても贅沢なことのように思えます。時間はお金に換えられる可能性を秘めていますから、なんだか二重にコストをかけているような気分になってしまうのです。自分がやたらとみみっちい奴に思えますけれど、これが僕にとっての「自分からお願いしてでもやりたいこと」のスタンスなんだとわかります。


効率よくお金をかせげば、お金をつかってたくさんの時間を浮かせることができるでしょう。今の僕は、たくさんの時間をつかって小金をかせぎ、限られた浮いた時間に少額の自己投資をして過ごしているのです。つつましいともいえるし、これを幸福と評価するのも自由です。実際、じゅうぶん恵まれているほうでしょう。このところ、しあわせについて考えることがあります。