自立しているか?

20歳のときの自分は、大学生でした。一浪して入学したので、1年生でしたね。家庭とか学校に属していて、一個のおとなというには足りない存在だったかもしれません。


おとなというものは、とても自立した存在であるというイメージを長く持っていました。いまぼくは32歳になるのですが、その「おとなのイメージ」に合致するようなおとなかといえば、だいぶか少しか、いくぶん違うように思います。


家庭とか学校に属した存在だった自分の延長上にいまもいるわけですし、自立しているといっても、イコール「独りで生きられる」のとは違います。むしろ、より広く社会に広く支えられている存在になったように思うし、そのことを実感できるようになったようにも思います。かつては学校だとか家庭だとかに太く強固に支えられていたのが、広く社会にふんわりと「小さな狭い単位の社会」ごと掬いあげられているような支えられかたに推移した、というイメージです。自分の変遷にともなって、自分を支えてくれているものも変遷していっているだけなのですね。フィールドが違っても、転がるなり立つなり、し続けています。



学校や家庭に包容されていたときには、与えられた問いの答えを探していれば良かったかもしれません。でも、「答え」はいまや、簡単に手に入ってしまいます。だから、何を「問う」のかによって、その人が値踏みされるのかもしれません。しかし、自分で立てたつもりでいるその「問い」も、これまでにすでに立てられて、すでに解決済のものかもしれません。かつては、そこだけで立ち上がり、そこで解決されたオリジナルの問いと答えだったかもしれませんし、あるいは他の場所で同じ問いが立ち、同じような答えが見つかっていても、そのことを広く共有する手段がなく、そのシステムも未整備だったために、「オリジナルの問いと答え」という認識のままでいられたかもしれません。問いを立てても、その問いは立てられ済で解決済、ということに直面する機会は増えていることでしょう。


与えられた仕事をこなすのは、与えられた問いの答えを探すのに似ています。仕事をつくれるかどうか、仕事をつくって他者にあたえられるかどうかが、「自立しているかどうか」に関わってくるようにも思います。特定の誰かに頼りきっているとはいえないけれど、いろんなところで、極端をいえば顔も知らない関係の人とまで頼り・頼られあっている状態、というのが、20歳とかそこらの僕が抱いていた「自立」のイメージと違うところです。


そこで改めて「自立しているか?」と自分に問うと、「まぁ、かつてよりは、多少はね」といったところでしょうか。



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