なまえ:

僕の名前を忘れちゃったら、どうなるだろう。僕自身も思い出せないし、これまでに僕と関わったことがあるはずのすべての人も、僕の名前を思い出せなくなっちゃったら、どうなるだろう。どこかの紙に書いて残っているはずの僕の名前も、どういうわけか見えなくなっちゃったり、消えてなくなっちゃったり、同様にしてネット上のどこかに書いておいたり存在していたはずの僕の名前も、文字化けしちゃったり、そんなサイトありませんよというエラーになっちゃったりして、やっぱり僕の名前がどうしたってわからなくなっちゃったら、どうなるだろう。


でも、僕の存在が消えてしまったわけじゃない。名前がなくても、存在はできる。僕と関わったことがあるはずの人たちはみんな、僕のことを僕だと認知できる。固有の存在としての僕だということがわかる。僕自身も、僕自身だとわかっている。でも、名前が思い出せない。ただ、名前だけがわからない。


きみ、とか、あのときのあの人!  とか、あいつ、やつ、あなた、彼、そちらさん、いろいろと僕を指し示すことのできる代名詞や二人称・三人称はあって、あるいは職業とか、僕を呼ぼうとしてくれるその人と僕が関係したときの状況を引っ張り出して、なんとか僕を指し示そうとする手段もいろいろあるだろう。だから、僕は僕の名前を忘れちゃっても、僕と関係したはずのすべての人が僕の名前を忘れちゃっても、僕の存在までもが消えちゃわないで済むだろう。


そうして過ごしているうちに、僕と関係し続けてくれている(もちろん、すべての存在は関係しあっているけれど)人たちは、いつまでもきみとかあなたとかじゃアレだし(アレってなんだ?)、というので、なんだか僕のことを形容する適当なことばで呼び始めてくれるかもしれない。あるいは、そんな名前を忘れられちゃった自分のことを、僕自身がべつのことばで言い表し始めるかもしれない。それは、たぶん僕という存在を指し示すことばとして、他のことばと区別が可能なものであろうから、そのことばこそ、僕があたらしくもらい受けた名前だといっていい。


それで、僕はようやくその僕を指し示す固有のことばをつかって、自分のことを紹介したり、関係してくれる人たちの間で紹介されたり話題にあげられたりということが、そのひとことでできるようになる。かつて、僕は忘れちゃった昔の自分の名前をつかってそれができていたはずなので、新しいことができるようになったというよりは、できていたはずのことを取り戻したというのが適当かもしれない。僕は大なり小なりの紙片に、あたらしくつけられた自分を指し示す固有のことばを書き込んで、お役所で何かの申告をするだとか、コンビニのレジで荷物を預かってもらうとか、何かのお祝いやお悼みごとの受付だとかのもろもろの機会にも、うろたえることなく筆をはこぶ。逆にいえば、名前がわからないとか、そもそも名前がないとかでうろたえる機会なんて、ほんとうはそういうときくらいしかないはずで、というかそもそもそういうときであってもうろたえることなんかちっともないはずで、目の前にあなたがいて、あなたの目の前に僕がいるときは、その名前をおぼえているか、そもそもそんな名前があったかどうかなんて、さしたる問題にはならないだろう。一部に、名前の蒐集家とかそんなような人がいて、名前がわからないと怒り出すのかもわからないけれど。


さて、そんなようなことをつらつらと書いている僕の名前はなんだったっけ。それがないことには、この文章が成立しないのだろうか?  そういえば、作家の名前が書いてない本というのは、あまり見たことがないよなぁ。どうせならここらでひとつ、僕がつくってみせようか。落書きの延長みたいな、私家本になるんだろうか。それはそれで、すてきな本だろう。