ためらわずに「やる」のが、いかに簡単か。

僕には、保守的なところがあるのを自覚しています。「今のまま」を続けることを重んじる価値観、といえましょうか。


ずっとずっと、墓に入るまで(入れればラッキーですが)このままでいいというわけではない、というのはわかっているのです。それを、いつまでに変えないとならないのかを見極める能力に、いくぶん不足があるのかもしれません。


その期を見極められたとして、その期までに何かを変えるためには、いつからどんな準備を始めればよいのか、必要となる具体的な準備はどんなものなのかを適切に判断して、おこなっていかなければなりません。


その準備にかかる必要最低限の期間というのを事前に推し量って見積もることは不可能ではないでしょうけれど、なかなか取り組み始めてみなければ不明瞭なことも多いでしょう。ですので、いつまでに変えないとならないのかを見極める能力というのは、その「不明瞭」の分量がどれだけあるのか、その幅を見極める能力なのだと言い換えて良いのかもしれません。


どう見積もっても、今から始めたのでは自分ひとりの人生の残り時間では足りない、ということがたくさんあることと思います。個としての自己実現に終止せず、次の世代へと実現を託すための準備に力を割いて、人生を賭せたら、どんなにいいことかとも思います。


未来に起こることを予測する能力なんて、限界があるとも思います。ある分野の専門家の本を読んでいて、「学者にわかることは、今までに起きたことだけだ(これから起きることは、専門家にもわからない)」といったことばに出合ったことがあります。考えても考えても、ある分野に絞って、特化して力を注ぐようにしたとしても、未来にどうなるかということに含まれる「不明瞭分」は消えないのです。そう思うと、考える、情報をあつめる、調査する、といったことももちろん人生を賭すのに十分なくらいに大事なことだとは思いますが、まず「やる」ということの偉大さに、いえ、僕が僕自身に銘ずるならばあえて表現を変えましょう、まず「やる」ということがいかに簡単なことか!  ということに気付かされるのです。


どんな方位に向けて出発すればいいのか、方向性を見極めるための下調べや知識の収集は必要かもしれません。「ニーズに即した情報収集」が、「娯楽としての蒐集」にすり替わってしまいがちなのが、僕の悪い癖だなぁと自覚しています。いや、娯楽も、人生を賭すのに十分な大事業だと思うんですけれどね。


実は僕はそこをはき違えていて、「ことば」に逃げ込んでいるだけなのか……そう思うのだったらば、今すぐ娯楽に人生を賭せばよい!  のにも関わらず、その覚悟さえできていないのが、今までの僕なのかもしれません。


「さて、これからどうしよう?

「覚悟を決めろ。そして、やれ」