ヒーローを支える、ヒーローあり。

大学生の頃、印刷工場内の機械や設備を、拭きあげてきれいにするアルバイトをしたことがありました。家庭用の洗濯機をふたつ連ねて並べたくらいの大きさの水槽や、膝丈くらいの水槽や、印刷物を送るローラーの下に設置された受け皿のような細長い部品などを清掃するのが主な作業でした。都内にある非常に大規模な印刷所でしたので、あの頃広く認知され話題になったなんらかの出版物・あらゆる印刷物のどれかが、僕たちの掃除した機器を通って世に出されていたかもしれない……なんてことを思うのは今が初めてで、当時はそんなことにはまったく思い至ることなく、お金のためにやっていた作業でした。


陽の当たるところに出されてよろこばれるモノが出来上がるまでに、普段は誰の目にもさらされないところでおこなわれる数多の努力が存在することを思います。幾千幾万の観客の視線や歓声を集めるステージ上のシンガーがいるとして、そのパフォーマンスの実現のためにどれだけの人がどれだけのはたらきをしたのかということを思うと、観客の視線、五感のセンサーが向けられた先にあるものは、この世の人々のあらゆるおこないが集約されたわずか一点でしかないのだなぁと思います。


シンガーやミュージシャン達の発する声・音を、アンプやスピーカーを通して送り出すために必ず経由しなければならないのが、マイクロフォンやケーブルです。(ケーブルに関しては無線、音源に関してはデジタルという可能性がありますが、ここでは触れないことにします。)ステージで注目を集めるのはたった一人のシンガーかもしれませんが、そのパフォーマンスの最重要な構成要素である声や楽器の音をあますことなく聴衆に伝えるための機構・構造物が、マイクロフォンであり、ケーブルなのです。


先日、「楽器フェア」というイベントに行ってきました。国内(あるいは国外)の楽器屋さんで一般的に流通している商品や、その最新のものやこれから発表されるものなどが一挙に集まるイベントでした。そこで僕が最も感銘を受けて帰ってきた出展は、楽器本体ではなく、ケーブルやアンプ、マイクロフォンをつくる会社のものでした。


出展ブースでは、ケーブルとプラグ(入出力先に挿し込むための先端部)の接合をする作業が職人さんによって実演されていました。信号を伝える複数の線を、ハンダづけする作業です。職人さんの傍らにどさっと積み上がった未接合のケーブルの束が、異様な存在感を放っていました。


普段目にすることのない作業の様子に、僕は見入っていました。僕らが日頃、目にしたり触れたりできるのは、もう出来上がって商品として楽器屋さんに並べられたものでしかありません。(本番のステージ上のシンガーのパフォーマンスも同様ですね。)そうした「商品」に至る前の、専門の人による仕事が目の前で実行されている光景というのは、僕にとって非日常的な体験でした。やたらと感動してしまって、僕はいろいろと素人目線の質問をいくつも投げかけたのですが、そのひとつひとつに、丁寧に誠実に答えてくれる職人さんが、その仕事ぶりが、素敵でなりませんでした。


幾千幾万の注目をステージ上で浴びるヒーローもいるかもしれませんが、その日、その場所で、僕は未知のヒーローの存在を強く意識する機会を持ったのです。


ヒーローを支えているのも、またヒーローなり。