パラレルワールドがあったらば 〜理想の本番はあるか〜

どんなに練習を重ねても、本番は練習どおりにはいかない。どんなに気を遣って体調管理をしても、本番をベストコンディションで迎えられるとは限らない。


それなら、練習したってしなくたって、体調管理をしたってしなくたって、うまくいくときはうまくいくし、うまくいかないときはうまくいかない……ということになってしまうだろうか。


練習を重ねに重ねたときの自分と、そうじゃないときの自分を、分岐点できれいに分けたパラレルワールドと比較して検証できたらわかるのかもしれないけれど、今のところ、とうていそんなことはできない。あんなにあんなに体調管理に努めたというのに、この風邪を引かないですんだ「いま」は、ありえただろうか。あったとしたらば、いったいどこがその分岐点だったのか。それを明らかにするための比較ができるパラレルワールドがあったらいいのかもしれないけれど、今のところ、そんな世界にありつける予定も見通しもない。


すべてのおこないの結果が、自分にふりかかってきているとしか言いようがない。そのおこないは、自分が直接したことかもしれないし、直接したとは言いがたい、間接的に関与したことかもしれない。とにかく、すべての原因と結果を、僕たちは受け入れる以外にない。そうして今日も、たぶん明日も、思い通りにならない未来の本番に備えて、「このようにふるまった結果たどり着いた未来であるならば、自分は受け入れる以外ないだろう」といえるような帰着点を目指して、僕はやっぱり練習を繰り返すし、無駄な努力に終わるかもしれない体調管理とその分析や検証を繰り返す。


本番は、思い通りになっちゃくれない。でも、だからこそ、ときに良い方に裏切ってくれることもあるはずだ。こちらの期待を汲んじゃくれない。いや、厳密には「期待した」という事実を反映した本番がやってくることになるだろう。期待することで、未来にやってくる結果をより受け入れやすくなるのならば、期待は許容・受容のハードルを下げるものかもしれない。許容しやすい・受容しやすい未来が、その人にとってほんとうに良い未来なのかどうかは別の話でもある。受け入れがたい結果ほど、強い影響をもたらして、その人を変えるだろう。その変化を、ときに成長と呼ぶかもしれないし、「強くなった・大きくなった」と評価することになるかもしれない。


「受け入れやすさ」ばかりをすすんで選んでいると、むしろ「受け入れがたい未来」が待っているような気がしてならない。そんな予感がまた、僕の未来を変えるだろう。その差異を検証する術はない。