気圧の差に、吹き込む笑顔。

余裕がないと、笑顔が潰えがちになる。では、笑顔さえ絶やさないでいればいつでも余裕が生まれるかといえば、そう簡単なものでもないだろう。余裕がなくなった途端、真っ先に忘れてしまうものが笑顔なのかもしれない。


笑顔は、余白に吹き込む風みたいなものかもしれない。まずそこに余白があって、それ以外の場所との気圧の差によって吹き込む自然現象みたいなものかもしれない。


笑顔にも、つくり笑顔というものがある。これは、扇風機だとかサーキュレーターみたいのもので人工的に起こした風みたいなものかもしれない。機器がなくて、自分の肺に吸い込んだ空気を、両の頬をふくらませるようにして吹き出した息かもしれないけれど、いずれにしても人為的なものである。自然に肺に吸い込まれていって、代謝のために交換されて吐き出される息ともまた違う。自然の風を真似たものを、どこかに負荷をかけて無理やり送り出しているかのようである。


起こすのではなく、起きるものを笑顔と呼ぶ。それ以外のものは、便宜的に笑顔と言い含めているだけのものかもしれなくて、実は「ただそういうふうに見える顔」「ただそういうふうに見える表情」「ただそういうふうに見える、おもに顔面を中心とした態度・ふるまい」かもしれない。


「笑顔をつくると、楽しくなる。つくり笑顔でもよいから、笑ってみせればそのようになる」というような知識を、なにかのメディアで得たことがある。科学的な検証か実験か、そんなような類の根拠に基づく、その筋の専門家による説だったように記憶しているが、もしかしたら、ただの「論証」程度のものだったかもしれない。つくられた笑顔は、今日ここでいう僕の論筋にならっていうならば、むしろまだ笑顔未満のものであり、笑顔のようなものをつくってみせることによってまず余白をつくり、そこに気圧の差を生じさせることによって本当の笑顔を呼び込むことが、先の専門家による説がいう、「笑顔をつくりさえば、ほんとうに楽しくなる……」というようなことなんじゃないかと、個人的には思っている。


愛嬌があるかないかというのは、雑にいえば、自然な気圧の差による風を生じさせているのか、それとは別に人為的な力によってファンを回して風を起こしているのかの違いみたいなものなのかな、なんて思う。じつは、気圧の差によって自然に発生する気流が、一般的にいう「笑顔」らしい見た目をまとっていないがために、「無愛想だけど、愛嬌はある」という、一見矛盾しているかのような現象がおこりえるのじゃないかとも疑っている。


変にニタニタ笑っていて気持ち悪がられるということも現に誰かの身に起こっていることかもしれなくて、僕としては他人事じゃないなという気がしてならない。たまに、「顔面筋が疲れたな」という日を迎えることがあって、そういう日は、僕の持つ扇風機やらサーキュレーターのモーターが焼ける寸前だったのかもしれない。「なんでそんな笑ってんの?」みたいなことを言われた経験もあって、その言葉は、僕の持つ扇風機やらの人工的な機器の類が僕の心の余白を圧迫していることによって無意識に発しているシグナルに対するリアクションなのかもしれなくて、そのリアクションを受け取った僕は、心の余白を圧迫する一切の人工的な機器の類をリサイクルに出すといった選択肢を考えるべきときなのかもしれない。そんな機器を欲しがる人はきっといないであろうから、解体されてパーツ取りに利用されるか、良くても粉砕されて溶かされて等級の低い素材になって、どこかの舗装に紛れ込んで道行く人の靴の裏にキスを繰り返したのだとしても、きっとかなりの幸運といっていい。幸せのかたちも、さまざまだとつくづく思う。