食う・寝る・あそぶ 〜肝に銘じた3原則〜

手帳に毎日の体調がどうだったかと、その原因の考察を書いています。原因の考察なんて言うとおおげさにきこえますが、要は「きのう早く寝た」とか「バランスよく適量の食事をしかるべきタイミングで摂った」とか、ひとこと・ふたこと・一行程度の箇条書きがいくつかならんでいるだけ、という程度の考察です。


そして、もうほとんどバラしてしまっていますけれど、「今日は体調が良かった」「いいはたらきができた」「やりたいことが捗った」というような日の考察を読み返してみますと、なんとまぁ見事に例外なく、食事や睡眠に関わる、生活の基本的なことができていたことがわかる旨が書かれているのです。反対に、「今日ははかどらなかった」「ツラかった」「ダメだった……」という日に着目して読み返してみますと、これまたまぁなんとも例外なく、食事や睡眠をおろそかにしていることがわかる旨の記述があるのです。


なんとまぁつまらないといいますか、奇をてらうところの一切ないといいますか、表現の不適切さを無視してあえていいますと、そう、「じじくさい」のです!  これを機に、僕は「じじくさい」について思い直すべきかもしれません。それは、すごく人間として、基本的で、大事なことなのだと。本当の意味で「じじくさいだけ」なこととは、きっと、それほど基本的でもないし、大事でもないことなのだろうと。


かつての僕が関心を抱くことができなかったことで、今の僕にとっての興味の対象となることが、たくさんあります。歴史や郷土史のこと、憲法や法律のこと、物理的・地理的に近くにある(いる)、あらゆるもの・人のこと……


このような変化が僕に起きたのは、今の仕事が大きく影響しています。仕事に必要なことだから、関心を持たざるを得ないのです。関心を持って、情報を集めたり、調べたりして、知ろうとしないと、仕事がうまくいかなくなったり、楽しくなくなったりして、自分に実害が及ぶからです。良い方に捉え直して言わねばなりませんね、そう、関心を持って「知る」を積極的におこなうことで、仕事がうまくいくし、楽しくなるのです。ただそれだけのことなんですね。


そして、仕事においてだけではなく、生活費を捻出するため以外の活動においても、それらの楽しさを担保するのが、食事や睡眠といった、人間としての基本的な生活なのだとつくづく思います。何をやってもつらいとき、おもしろくない・楽しくないとき、最初にできることは、「食う・寝る・あそぶ」。これはもう、すべての人の「肝」に生まれながらに銘じられているはずであろうに、あとから覆い被せられた何かによって、見失い、おろそかにしがちなことのように思います。


それだけ、僕らに強く影響する「習わし」や「ものの見方・とらえ方(のクセ)」が、あるということなのでしょうね。手帳(日記)にそうした考察を書いておくことで、基本的なことなのに見失いがちなことが、たやすく目に触れるようになります。ずぼらで、視野が狭くなりがちな僕に、よく合っている手法なのかもしれません。