もーめんと

僕は、楽器の演奏やら歌唱やら、詞や曲づくりといったことをこれまでいくらかやってきました。だから、たとえば今の僕が「漫画を始めてみよう!」と思ったとき、「これまで演奏やら歌唱やら曲づくりをやってきた基礎のある僕」が、漫画を始めることになります。「演奏やら歌唱やら曲づくり」で培ってきたことが、どう漫画に影響するかは、始めてみなければわかりません。その応用がうまくいけば、始めたばかりにもかかわらず、魅力的な作品がつくれるかもしれません。逆に、応用がへたくそだと、異分野で培った基礎がかえって頭を硬くして、漫画という形式での作品づくりの足を引っ張る、不要な常識のように作用するかもしれません。


ギターロックと評されるような演奏形式でデビューしたバンドが、後続の作品において、ギター以外の楽器を用いたり、そもそも楽器ではないものによるサウンドなどを取り入れてみせたりといったことがよくあります。そうしたパフォーマンスや表現は、これまで蓄積してきたギターの演奏技術のことを思えば、「新しいチャレンジ」なのかもしれません。でも、これまでギターを用いてやってきたという礎があるからこそ、その表現形式が「新しいもの」という印象を与える効果が、少なからずあるのではないかと思います。


ギターロックから、他の楽器や楽器以外のものによるサウンドを用いた表現への転換は、「音楽」という大きいくくりの域を出ていないかもしれません。いえ、言い方をあらためますと、偉大な先人たちが、あの手この手を考えていろいろやってきた多彩なものたちの群れを、今の僕たちがひとくくりにして「音楽」と呼んでいるだけなのでしょう。「音楽」をやるしにしても「漫画」を描くにしても「落語」をやるにしても「ダンス」をするにしても、切り口が違うというだけで、大きくくくって「人間活動」……いえ、もっといい言い方がないですかね、「らいふ」そのものといいますか、「道」といいますか、いまこの場でよい呼び方・評し方が思いつきませんが、とにかく大きくくくればひとつのものであって、音楽をやってた人が突然漫画を描こうが小説を書こうが、あるいはこれといって何かをやってきたとは言い難いかのように見える人が突如何かを始めたかのように見えたとしても、それは連綿と続いてきた、ひと続きの命の営みの、いち「もーめんと」なんだよということを、僕は思うわけであります。


この瞬間も僕の「もーめんと」であり、「らいふ」はその積み重ねなのだと。