マメの視野

僕は、作詞・作曲と演奏・歌唱の録音に日々取り組んでいます。自分による自分のためのものなので、作品にケチをつけてくる人もそういませんし、知り合いでないたくさんの人からほめられるというようなこともありません。


僕の作品に似た作品は、世の中にごまんと存在するかもしれません。けれど、僕にとってはそのどれとも違います。どれもたったひとつのもので、代替がききません。ただ、他の人にとってはそうでない場合が多いでしょう。それはきっと、僕が僕自身のためにつくったものだからです。


多くのユーザーに届けることを前提としてつくられたものが、かれらのもとに届けば、きっとつくった側にもたくさんの反響があることでしょう。「ここがすばらしい!これからもつくり続けてほしい!」とか、「おれのためのものだと思ったけれど、使ってみたらここが残念だ。もっとどこどこをどんな風にしてほしい」と彼らが反応するのは、そのつくられたものが、かれらにとって「自分に関係のあることだ」と認識されていることのあらわれなのだと思います。


そもそも「おれは、おれのためにつくる!」と行動を起こす際の「おれ」が「We(わたしたち)」の意味を含む「おれ」ならば、つくられるものは、つくられる過程においても結果としても、たくさんの人を巻き込むことになるでしょう。「おれ」を「We」たらしめるものは、「視野の広さ」であると推察します。あるいは「視野の遠さ(深さ)」かもしれません。「おれ」を起点とした、視野の「広さ」と「遠さ(深さ)」で、つくられるものの影響力が決まるのでしょう。


天性の巻き込み力を備えていて、やることなすこと周りに影響をもたらす人がたまにいるみたいです。僕にはそんなものはないので、少しでも努めて視野を広くしようとしたり、遠く・深くしようとしたりします。アンテナの感度も平凡なので、(ときには「自分」という点の座標を動かして)こちらからキャッチしに行かないと、僕が「つくるもの」は、発展しません。自分を動かすためのエネルギーをいかに確保するかといった、地道な努力も僕には必要です。


「マメ(豆)」みたいな自分が、なんだか少し可愛く思えてきます。はかなさ、可憐さで「愛される」という生き方もあると思うのですが、後天的に身につけるのは難しそうですね。


読んでくださり、ありがとうございました。