銃と入れ歯

〈笑いは、驚きと共通点がある〉というような論理を聞いたことがある。笑いを仕事にしている誰かがテレビで言っていたのを観たのだったか、出元は忘れてしまった。


くだらなくて、笑っちゃうということがある。先の論理に照らし合せていうならば、驚愕のくだらなさに出くわしたときに、人は笑う。予想の範囲のくだらなさというものが仮にあるとして、その範囲の外側からやってくるくだらなさに不意をつかれ、驚き、人は笑うのだ。


緊迫が、予想されるくだらなさの範囲を狭める原因になるかもしれない。たとえば、これはあるミステリー小説で読んだ場面を思い浮かべて述べるのだけれど、自分に銃が向けられている場面で、銃をこちらに向けて激昂する人間の口から、入れ歯がこぼれ落ちたらどうだろう。命が危ういという緊迫した場面は、「予想されるくだらなさの範囲」を、ぐ~んと狭めるのではないか。危機にある人間においては、くだらなさの予想のためにそんなにたくさんの注意を払う必要はないという処理・判断が無意識になされていて、些細なことが「予想の範囲を超えたくだらなさ(驚き)」に当てはまる素地の準備が、ばっちりなのではないか。


結果、銃を向けられた側の人間は、激昂する人間の口から入れ歯がこぼれ落ちる様子を見て笑ってしまう、というのが、この小説の筋だ。これが現実だったら、どうだろう。


僕は銃を向けられた経験がないので、想像力が試される。そのような緊迫した、自分が危機にさらされている状況では、不用意な行動や反応をなるべく抑えて、現状を保とうとすることに全身の神経が集中するのではないか。すなわち、フリーズである。とまってしまうのではないか。銃をこちらに向けている人間の口から、入れ歯がこぼれ落ちる。だからなんだ?  コチトラ、命が危ういんじゃ!とでも言わんばかりに、体がこわばって動かないのではないか。すなわち、驚きへの抵抗値を極限まで高めて、生存確率を上げようとする反応が起こるかもしれない。


緊迫した場面で、笑うかどうか。銃を向けられるなんてことは、この国の生活ではそれだけでかなりの人にフィクション性を感じさせる状況とも言える。会議や式典の場面で、目上の人が噛むとか、言い間違いをするといったシチュエーションの方が、いくぶん身近に感じられるだろう。多くの人が笑っていないことには、自分も笑ってはいけないような気がしてしまうのは、日本人の気質なのではないかと疑いたくなる。周りの誰も笑っていないけれど、可笑しいなと感じる機会は日常、結構ある。多くのそうした機会において、僕もやはり、笑いが表出しないようにコントロールしている。ある程度、「笑い」という反応は、意志によってコントロール可能であるという認識が強勢であることを裏付けているのかもしれない。