オーバー32歳と180日

・誕生日と聞けば、何かと驚かせようとする傾向がありはしないだろうか。どこにそんな傾向があるのかといえば、私か、あなたか、私やあなたを含めたこの社会の中に、だ


・「サプライズであること」を守るために生じる制約によって、その企画内容がツマラナクなってしまうのはもったいない。そんなサプライズはぶち壊しちまえ、という発想を「サプライズ」と呼ぶとすれば、近々誕生日を迎える人をつかまえて「ねえ、あなたの誕生日を記念して何かやりたいんだけど」「ええ、それ、私に言う?  サプライズじゃないの?」というサプライズも良いかもしれない。この場合は、「サプライズを崩されること」がその人にとっての「驚き」にならないといけないので、対象者は「サプライズがあることが当たり前」的に日頃感じている人でなければならない。「サプライズ」なのに「それ(サプライズ)があることが当たり前」なんて、その前提を疑わない時点ですでに私たちは、何か大事なものを失っているような気がしてならない。このなんともいえないやるせなさ・せつなさを覆す事件に出会えることを、自分の人生には勝手ながら期待したいところだ


・暮れなんて忙しいのが当たり前なんだし、お店が混むシーズンにわざわざこぞって飲みに行かなくても、今のうちに飲みに行けばいい。とかいいつつ、365日飲むのが飲酒者のかくれみのだ(かくれられているかは別だ)


・自分はどこまで老いを自覚しないでいられるか。実は現在32歳の私も、刻々と老いを自覚しているが、そのことを否定し、解釈を変化させて、「イヤイヤ、私、まだ32歳ですよ。若いですよ。32っつったって、20歳にも匹敵する32歳ですよ?」とかいって、虚勢を張っているだけではないか


・「老い」に転じる境界線、「〇〇歳ライン」的なものがあるか?  若い頃の私は、食事量をいかに増やすかが命題だった。どこそこのつけ麺屋さんでどれだけの麺量を征服したかといったことが価値になる、そんな時代が私にあった。それから10余年が経過したと思われる今は、いかに少ない食事量で満足できるかということが価値になっている……とまでは言えないけれど、色んなモノをひと口ずつ食べて「はぁ、幸せ(ハートマーク)」とか言いかねないこの頃である。そのターニングポイントとなる年齢を特定出来たら、それが私の「〇〇歳ライン」かもしれない(25歳くらい、だっただろうか?)


・仮に「65歳ライン」なるものがあるとして、オーバー65歳だとかオーバー70歳だとかがいかに未知かなんてことは、たかだか32歳の私にははかりしれない。推し量ったところで、きっと「ペーペーがなんか言ってらぁ」レベルの浅はかな推察の域を出ないのではないか。一寸先は闇だ。32歳の私は、オーバー32歳をよく知らない。何年後は自分の子どもが小学生とか、同じく自分の子どもが成人するとか、そういったことを手掛かりに推察する切り口はある。切り口がいくらあったとしても、ヴィジョンの中のものが目の前に出てくるまでには、まだそれ相応の時間がかかる。1秒先のヴィジョンの中のものだったら、1秒待てばありつけるけれど、今とそう変わらないのでなんの味もしない。ただ、1秒の積み重ねが1日になり、1年になり、1生(一生)になる。あなどってはいけない


・「自分がいなくなったあとなど、どうでもよい」……そう思っている人がたくさんいるようでは、怖い。「自分がいなくなる日も、そう遠くはない」という自覚のある人でも、なんだかんだ、1年先か、1日先か、1秒先かはわからないが、未来を持っている。その未来を、なるべく気持ちよく、楽しく生きたいと思うのは、先が長いか短いかという自覚に左右されるものでないはずだ。むしろ、「まだ自分がいなくなる日までにはいくらかある」と思っている人たちの行動のほうが、怖いかもしれない。



散漫な乱文を読んでいただき、ありがとうございます。オーバー32歳と180日を、刻一刻とやっております。