恥のカモ

恥ずかしかったことの記憶って、積極的に思い出したくはない。恥ずかしい思いをたくさんしてきたこと自体が恥ずかしい……としたら、恥ずかしみの無限フィードバックが起きることになる。


恥ずかしい思いを受け止められたら、諦観に変わってくれるだろうか。恥ずかしいことを飲み込みきれていない様子を意図的に呈することは、恥ずかしいやつを演じる、というテクニックなのかもしれない。


恥ずかしい思い、後悔しているおこないは、ずっと忘れない。どんなことだったか、言いたくもない。


忘れていないし、言いたくもないうちは、きっとまだまだ「恥」なのだろう。「恥」を語れるようになったとしたら、そのときそれは厳密には「恥」ではなく、きっとほかの「何か」だ。「何か」に入るものがわからない僕は、まだまだ「恥」の最中にいる。


あのときの「恥」がなかったら、いまの自分がどうなっていたかと思うとおそろしい、という程の財産たる経験が、どれだけ自分にあるだろうか。「訊くは一瞬の恥、訊かぬは一生の恥」みたいな箴言があったと思う(正くは覚えていない。合っている?)けど、買ってでもするべき「恥」を買いあぐねていると、「恥」はどんどんインフレーションをおこして、やがては手が届かなくなっていく。あるいは、「若さ」は、「恥」を買うときに割引価格を適用してもらえる資格なのかもしれない。その場合、本来「恥」は高級で価値の高いものなのだ、ということになる。


大きな代償と引き換えに得た「恥」を、簡単に他人に漏らすわけにはいかない。その「恥」は、その人に特化した究極のカスタムメイドであって、他のだれかにとっても価値の高いものとは限らない。むしろなんの価値もないようながらくたである場合の方が多く、その「恥」の内容を開示したり、その価値の高さを語ったりしたところで、「そのがらくたのどこにそんな価値があるわけ?」と、落胆されたり、つめたい反応が返ってきたりするのも望ましくない。大きな代償と引き換えに得た「恥」は、たいせつに腹の内に保管しておくのが吉だろう。


仮に「恥」をガラスケースの中に安置して、みずから公開できるような境地に至ったとしたら、そのときそれはもはや「恥」ではなく、学術的資料のような、永く、広く、普遍的な価値をもつ別の「何か」かもしれない。この「何か」に入るものがわからないでいる僕は、まだまだ「恥」を割引価格で購入できる輩なのかもしれない。



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