まっくらやみロス

山梨県北杜市。そこは、ご縁があって、僕がたまに訪れる土地だ。標高が1000メートル近くに達する場所もあって、空気が良くて水のきれいな土地だ。夜、森の中にひっそりと佇む山小屋の中で、雨戸を閉め切ったときの室内の暗さは、本物だ。自分の指先も見えない。


自分で作り出した暗闇ならば、その暗闇の原因を取り除けばいいだろう。天体にはたらきかけて、その場で瞬時に夜を明けさせることはできないだろうけれど、閉め切った雨戸を開けるとか、室内の照明をつけるといったことはできるだろう。(いずれも、「原因」を取り除いたことにはならないけれど。)


夜の田舎道の明度は、月の満ち欠けによって大きく左右される。田舎道でなくとも、どこも本来は、月の満ち欠けから大きな影響を受けているはずなのだけれど、煌々と夜通し照明が点され続ける都会においては、月の満ち欠けなど気にしないでいられる人が多いだろう。



旅は、命がけだった。


行き先を決めてから出かける旅と、それ以外の旅がある。行き先を決めてから出かける場合は、行き先にある程度の知見がある場合がほとんどだろう。本や雑誌で見て知ったとか、誰かから聞いたとかである。あるいは、明確な目的があるだろう。それが仕事か観光か、学業や研究かは人による。


たとえば大むかしの古代人が、地平の先に何があるのかなんてわからないけれどそこへ、その先へ移り住もうとする場合、ほんとうに命がけである。行った先で食べ物や飲み物が得られるかなんてわからないし、安全に休める場所があるかどうかもわからない。それでもそれまでいた場所を出なければならない理由があるとしたら、今いる場所ではもうこれ以上、食べ物や飲み物を得られなくなったとか、安全に寝起きできる環境ではなくなったとか、そういう切実な理由かもしれない。ここにいても明日生きられるかわからないとなった場合、いちかばちかでも旅に出るほうを取るのに十分な動機といえる。


そう思うと、現代の僕らが旅に出る理由とは、ほんとうにかわいいものというか、恵まれていて幸せなものがなんと多いことかと思う。ただ、大むかしの古代の人が今より幸せではなかったなどということはないだろう。(今の持つ僕の価値観がいかに矮小かを思い知る。)古代人の感じる幸せを体験できるタイムトラベルが可能だったらなあ……なんて思うのは、いかにも現代人的な発想である。「帰れる」ことが、僕あるいはそれ以外の多くの現代人にとっての「旅」の定義の前提として、無意識下に刷り込まれているような気がしてならない。


今日も明日も、急に食うに困るような事態になることはないだろうななんて漫然と思っているのと、今日をなんとかして生きながら、並行して明日も生きるためにできる最大限のことをするという姿勢でいるのとでは、まるで世界の見え方が違うのではないか。現代は、生きることの喜び、生きることの苦しさ、生きるにまつわるあらゆることまでもがデジタル(記号)化されてしまったように思えなくもない。


微かな灯りも、真の暗闇においてならばはっきりと見えるだろう……現代の都会の環境下では、埋もれてしまってまったく見えない・気付かれもしないようなそれだとしても……。なんでもかんでも行き届くことで失うものは、「真の暗闇」かもしれない。



読んでくださり、ありがとうございました。