テンポの許容範囲

規則性や秩序に、人間はここちよさや安心を感じるのかもしれない。音楽においてテンポがキープされることは、前の拍から次の拍までの間隔が一定で、その繰り返しが呈されることよって成立する。おそらく人間は、3~4拍聴いただけで、テンポが一定かどうかをすぐさま判断し、安心や安定、ここちよさといった感覚を抱くのではないかと私は思う。


そのことが常に良いとか悪いとかではない。定まったテンポを用いた表現は、すぐさま見切られて、飽きられる可能性もある。逆に、定まらないテンポを用いた表現には、聴き手の注意を引きつける効果がある。演奏や作編曲の中上級者は、そのことをテクニックとして意図的に利用するだろう。


天体の動きの中に見出せる、リズム。巨大なそれに、個人の力で抗うことはできない。だからか、おおよそ多くの人間は、日が暮れてしばらくしたら眠り、日が昇っていくらかした頃に目を覚ます。リズムを合わせているかのようである。意図して合わせているというか、合っているというか。個別のリズムの繰り返しによって、テンポ感が生まれる。


すでにあるテンポ感を急に分断し、立て直すのは相当な負担を伴う、困難なことだと思う。一方で、すでにあるテンポ感を、ある範囲で守りながら、じんわりと速度を調節することが可能だ。これは、音楽において非常に重要な技術だと私は考えている。2人以上の編成による合奏においても大事だし、独奏においても大変有効で、私はそうした技術を用いた表現を実践しているつもりでもある。


高校生の頃も大学生の頃も、私はさんざん朝寝坊をした。一時限目に遅れることが、私の「定時」のようになっていた。なんだ、基準とズレているだけで、「規則正しかった」のではないかと今になって思う。音楽におけるテンポのコントロール技術を応用して、じんわりと「基準」ににじり寄れば、遅刻はなくせるかもしれない。たぶんそのときの私は、音楽においてもそれだけ未熟だったのだろう。


たとえば、毎日5分ずつ、就寝と起床の時刻を早めていくことで、遅刻はなくせるのではないか……というようなことを考えたけれど、実際にはそう理屈どおりにはならない気もする。生体のリズムは、たくさんの個別のものが影響し合って形成される、非常に複雑なものなのだ。「合っている」のが必然ならば、「ズレ続けている」のもまた必然なのだろう。たとえ「基準」に近い存在から見て、ズレたり乱れたりして見える存在があったとしても、受け入れあう懐の深さが欲しい。「基準」の幅を、にじり合わせるように一時的に広げたりズラしたりして、協調しながら、一緒に快く生きていけたらいいと思う。



読んでくださり、ありがとうございます。反応しあうわたしとあなたのあいだに、リズムが生まれ、テンポが感じられます。