ミラーリング&モニタリング

憎しみ、呪いの成就は幸福か。


憎しみ、敵討ちみたいなものを人生の目的にしたとしたら、それを達成したときにその人物も自死してしまうのではないか……というような顛末が目に浮かぶ。フィクションの見過ぎかもしれない(そんなに見たつもりもないが)。


いつも、みんな大好き!  的なふるまいをする人がいたとしたら、うそつけ!  と思わなくもない。いや、わたしはホントにそうなんだよ~、なんて言われても、たぶん本人でも気付いていない負の感情がどこかにあるのではないかと疑ってしまう。拾って認知していないというだけで、そうした信号が本人から発せられている、そうしたホルモンが分泌されている、みたいなことは起きているのじゃないかと思う。それを、意識の表層に浮かべる、拾い上げるといった機能が、なんらかの理由によって停止したり麻痺したりしているのじゃないかと思ってしまう。そうした機能が適切にはたらくことで、バランスが保てるのではないか。


●○ちゃんねる」的な掲示板は、有名人でなくともかなりいろんなことを言われたい放題な場なのかもしれない。僕は一切そういった掲示板を見ないけれど、万に一つくらいは、僕のような無名人についての誹謗中傷を探し出すこともできるかもしれない。


嫌いだとか憎いとかいったことで、人生を費やすのは、おもしろくない。そのようにしたくてするひとなんて、いるのだろうか。いたとしたら、きっとやむにやまれぬ事情があるのではないか。ほとんどのケースは、そこまでの事情はないだろう。その場かぎりの悪口や、憎みごとを言っているに過ぎないのだと思う。


「Aくんが大嫌いです」という書き込みがどこかにあったとしても、そのことを、書き込んだ当人が人生の真ん中においているかといえば、まったくそんなことはない。だから、「●○ちゃんねる」的な置き書きに一喜一憂して、浮かれたり落ち込んだりして、生活に支障や変調をきたしてしまうのは、妥当とはいえない。その人が変わることなんか、書き込んだ人はそもそも望んでなんかいないのだ。そうでなければ、そのような掲示板に書き込んだりすることなく、面と向かってAさんに言うはずである。Aさんが変わることが、その発し手にとっても利益になるからだ。


そういう、顔の見える対等さがあって、はじめて「関係している」といえるのではないか。そう、ほとんどの非対等な陰口に対する反論は、このひとことで片付く。「あなたには関係ない」。関係ないことだからこそ、非対等で非オフィシャルなところでささやかれるのだともいえる。


名指しでツイッターに反論を書き込む行為なんかも、実は署名発信のようでいてぜんぜんその限りではなく、掲示板の陰口に近いものだというのがいまのところの僕の認識である。そういう矢面に立った経験があるとはいえない僕なので、自信も根拠もないけれど。


自分に対する不満があると、そのことが表出して他人に矛先が向かうのかもしれない。その矛先を、自分に反射して返してくれる鏡みたいな存在を身近におくといいのかもしれない。種々の自己活動、趣味や研究のようなものかもしれないし、対等な立場で署名発信としてそれを指摘してくれるような人と関係を持つことが、それにあたるかもしれない。


さまざまなものを媒介にした、ミラーリング、モニタリングといったことか。幸い、現代はそうしたものの手段や方法には富んでいるだろう。



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