ギターと、僕と。

ツールは、考え・アイディアの実現のためにある。「買ったけど弾かない、高いギター」は、もはやツールでもなく、ただの置物だ。たとえかき鳴らしたとしても、なんのアイディアや考えもなしに鳴らされる音は、きっとただの雑音でしかない。発想の実現のためにギターというツールがある。そのツールを用いる人間の発想を、出力する媒体なのだ。


ツールには、個によって倍率がある。たとえば、高価で高品質なギターの倍率は、2とか3とか4かもしれない。ギターを通して出力する「わたし」の母数が「1」ならば、最低限そのギターの性能をぴったり引き出せることになる。「わたし」の母数が「1.0」を超えるならば、出力はギター本来の性能を上回るパフォーマンスになる。逆に、「1.0」未満だとすれば、ギターそのものの真価さえも引き出してやれない。


「わたし」という「母数」がいかに大事かという話をしようと思ったのだが、なんだかギターという「出力媒体」「ツール」「器(うつわ)」メインの話になってしまった。


あるいは、「わたし」も「出力媒体」のうちに入るのかもしれない。「わたし」の肉体はもちろんだし、ひょっとしたら精神も含めた「わたし」でさえ、「出力媒体」のうちに入るというとらえ方もできる。


「わたし」という器(うつわ)に宿るものがなんなのかというと、魂みたいなものだろうか。なんとなく「魂」がしっくりくるかと思ってこの言葉を選んだけれど、それも、人間の「総体」としての魂、というようなイメージである。あるいは、「真理」とか、「世界」とか、「存在」とか、そんなようなものかもしれない。どのことばもしっくりきておらず、なんだか宗教めいてしまっているが……



クリスチャンの人はときに、神に「愛しています」と歌う。僕はクリスチャンだという自覚はないけれど、歌を作ったり歌ったりするときに、「なにに向かって歌うのか」ということはしばしば考える。「他」に対して歌う感覚もあるし、「自」に対して歌う感覚もある。その境目は、しばしば曖昧になる。そのへんのことを、一生かけてやっていくことになる気がしているし、そのことを意識し始めたのは、もうずいぶん前からだ。ひょっとしたら、「わたし」が「わたし」になるより前からかもしれない。(また宗教めいてきたが……


僕は無宗教なフリをしてるけれど、宗教的なものは意外と近くにあるようだ。信じるものは、自分で見つけるといいと思う。それがたまたま、すでにあるものだったり、先人たちが築いてきたものに合致する部分を見出せる場合のみに、一般的な宗教になるのかもしれない。


信じるものが自分だけのものかもしれなくて、だれもが、宗家となる可能性を秘めている。でも、その「自分だけのもの」をきわめることは、同時に一般的なもの、普遍的なものをきわめることにもなる。矛盾したことを言っているようだけれど、そんな気がしている。



読んでくださり、ありがとうございます。