仮想娘の結婚

娘を嫁にやるときのつらさを思うと、僕のところに生まれてきたのが息子で良かったと思っている。


いや、もし僕に娘がいて、彼女を嫁にやるときが来たとしても、きっと手放したくないというエゴを上回って「嬉しい」に決まっているとは思うし、娘が信頼して連れ添ってきた相手ならば、自分もその相手のことを同じく信用してやりたいところではあるけれども、けれどそれでも、どうもその相手のことが好きになれそうにないということがあるのではないかと、未だ訪れることのない場面を想像して、勝手にやきもきしてみたりみなかったりして、意味もなくじたばたした気持ちになってみる。娘を持つ親になる予定があるわけでもないのに、落ち着かない気持ちでいる架空の父親が、僕である。




僕は、将来妻になる女性の両親に、結婚するかどうか決まっていない段階で会っていた。彼女の母親が僕のことを、他の家族に対して「●●(のちの僕の妻)のお友達」と紹介したのが印象的だった。


「彼氏」とか「彼女」だとかいう関係は、どちらかの都合で一方的に消滅するもので、決してオフィシャルな関係とはいえない。僕自身もそうした側面を認めているし、彼女の母親もまたそうなのかもしれないとその時は思ったが、今ふと思うのは、そうした彼女の母親本人の認識ももちろん半分(あるいはそれ以上)で、もう半分(あるいは残り)は、彼女の父親に対する彼女の母親からの「配慮」の意味合いが、ひょっとしたらあったのかもしれない。


仮に僕と妻のあいだに結婚できる年齢の娘がいて、その娘が「彼氏」を自分たちのもとに連れてきた場合、妻がその「彼氏」を「娘の恋人」扱いするよりは、あくまで「娘のお友達」として扱ってくれたほうが、「娘の父親」としては、落ち着いた気持ちでいられるような気がしなくもない。




僕は、自分を良く見せようとすることが苦手である。苦手というくらいだから、やろうとしてもできないのだ。現実にないことをアピールすることはできない。


ある人のありのままの姿かたちが、それを認識した他者にとっての「魅力」になれば、お互いにとって幸せなことだろう。というより、それ以外ないのかもしれない。


「背伸び」くらいならまだ良くて、明らかな嘘だとか見栄だとかがこの世には存在するだろう。そうしたものを含めて、その人なのだと思えば、嘘も見栄もない。嘘や見栄を見抜いた人は、「ああ、こうした嘘や見栄を発してしまうことを含めてこの人なんだな」と認識する。見抜けない人は、信じきっているうちは、まだ結末が先延ばしになっている状態に等しい。嘘や見栄がわかったときに、相手を恨むか、見抜けなかった自分を悔やむか、あるいはその両方かわからないけれど、その時が訪れてはじめて、その人は「ありのままの相手」を認識したことになるのではないか。


あるいは、そんな単純な話でもなくて、こうした「嘘や見栄」や、あるいは「嘘も見栄もなしのありのまま」が複雑に絡み合って、部分的に解きほぐされたり、新たなわだかまりをつくったりすることをいくつも同時進行しながら、そのすべてをひっくるめて構成されるものこそが、ひとりの人間の「ありのまま」なのかもしれない。




だれかの「親」だとか「子」だとか、「恋人」だとか「同僚」だとか、「先輩」だとか「後輩」だとか、「わたし」だとか「あなた」だとか…………数えきれない「ありのままのわたし」がいる。




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