ひとりにひとつの、お好み焼きがあるように。

お好み焼きに、失敗はない。

なんて言ったら、お好み焼き通に怒られるだろうか。少し、言い方を変えてみる。誰かと一緒に、あるいは、自分自身のためにお好み焼きを焼いて食べる一連の行為に、尊卑はない。


具と粉を混ぜて焼く料理は、世界各国にそれぞれいろいろなものがあると思う。先に水で溶いた粉を焼き上げた生地に、あとからさまざまな具をトッピングする料理も含めて「粉料理」と括れば、かなりのものがその範ちゅうにあてはまることになる。ひとつの人生に少なくともひとつの「粉料理」がある、といってもいいくらいだろう。




「カレーはコミュニケーションツールである」というのは、水野仁輔さんの言葉である。水野仁輔さんを説明するとき、「カレー研究家」といってしまえなくもないのだけれど、その説明では決して十分とはいえない。「カレーに誰よりも詳しく、誰よりもカレーを通してあらゆるものを見てきた一番の人」というのが、僕の陳腐な語彙力と表現力を総動員した彼に対する精一杯の評価だ。




どんな分野の、どんなジャンルのことでも、コミュニケーションツールになりうる。あるいは、世界を見るための「目」にもなるし、その人を外側の世界に表す(現す)表現媒体にもなる。


最近、「化粧をして試合会場にやってくる、剣道部員(高校生)」がいたことを、僕の知り合いで教員(その剣道部の顧問)をやっているある人が嘆いていた。


剣道の経験が僕にはないが、きっと「剣道」は、その人間の内面や精神性が深く問われる「競技」であると同時に、「文化」にも「風習」にも「儀式・儀礼」にも「表現」にも「芸術」にも、そう、「コミュニケーションツール」にもなりうるのではないかと思った。そして、ここでいう「剣道」の位置には、あらゆる分野のあらゆるものがあてはまるものと思う。それが、先の水野仁輔さんの場合は、たまたま「カレー」であっただけかもしれないし、僕の知り合いで剣道部の顧問で教員の彼の場合は「剣道」があてはまるのかもしれない。「粉」あるいはそれ以外のあらゆるものを素材にした料理をつくることがその位置にあてはまる人もいれば、あるいは、そうした料理を食べたり分析したり評価したりする行為がその位置にあてはまる人もいるかもしれない。僕についていえば、それは、楽器を奏でたり歌唱したりすることかもしれない。




いろんな国に、いろんな粉料理がある。

あえて、もういちど。

「ひとりの人生に、(少なくとも)ひとつの粉料理」がある。




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