小さきものの詩 〜雑居ビルの一室に、道端の草木の蔭に〜

古典をよく知らない。何が古典の定義なのかもよく知らない。だけど、長い時間が経っても残っているものの価値は、なんとなく認めている。残そうとした意思によるものなのか、結果的に残っただけなのか、たぶんその両方なのだろうけど。


歌には、かたちがある。たとえば平歌があってサビがあって、というような形式を感じ取って、人はなんとなくポップだとか歌謡曲だとかを意識する。それらの歌の中に描かれるものたちもまた、何かしらの形を持っている。花ならば花のかたちだし、夜空や星々やら、おとこやらおんなやら、愛だとかうやまいだとか、一見かたちのないようなものかもしれない。


認知をとおして、すべてははじまる。


何をもって詩とするかは、むずかしい。これが詩だ、とあなたが思うならば、というのがひとつある。ひとに委ねてしまうのだ。ずるいなどというなかれ。それも、詩なのだ。誰も悪くない。良くもないかもしれないが。


何が良くて何が悪いのか、という結論のおしつけをされてしまうと、そこに感じられたはずの詩は姿を消す。すぅっといなくなるように、道端の花や草木のかげの隠れてしまう。隠れ先は、都会の雑居ビルの一室かもしれないし、通勤電車のいすの下かもしれない。


鳴り止まない遮断機の向こうに、幾千幾万の人生が素通りしていく。それが開いたすきに、自転車や自動車に乗った人々が線路を横切る。今しがた、巨大な重量体が通過したばかりの空中を、よくもかすらずにシェアしたものだ。紙一重でのすれ違いを、ひっきりなしに繰り返している。それは、時間的な棲み分けでもあるし、空間的なものでもある。


宇宙の宇の字と宙の字には、それぞれ時間的・空間的な広がりといったような意味があるとかないとか聞く。さまざまな人たちのさまざまな言葉たちと日々すれ違う、僕の勘違いかもしれないが。そんなところにも、たぶん詩はある。道端にあるものに目を向けて、ありのままに見つめようとする限り、詩は生まれてくるだろう。




読んでくださり、ありがとうございます。