An Aged Man

こんなこと、絶対にむかしの自分にはできなかったなぁなどと思うことがある。


たとえば楽器を演奏する僕でいえば、ギターをフィンガーピッキングで弾くとか、右足一本でドラムスのバスドラムのダブルストロークを踏むとかいった芸当は、それらの楽器を演奏しはじめたばかりのときには出来なかったことだ。ギターはプラスティックのピックで弾くのがあたりまえだったし、ドラムスのキックのストロークは、シングルでしか安定したビートが打てなかった。その先のことができるようになる自分なんてものも、そのときの自分には想像しづらいものだったし、仮に想像できたとしても、とても遠くに霞んで見える程度のものだっただろう。


経験を重ねると、経験を重ねたなりのものの見方をするようになる。定義そのものが、そのように変化する。


経験や技術が足りなければ、それ以外のものを武器にするしかない。必然的にそうなる。それは無理の効く体力かもしれないし、無知の許される社会的な境遇かもしれない。見えていないものを見ようとして突き進もうとする、そのためのモチベーションもたくさん残されていることになる。


経験や知識や技術を蓄積すると、「あの対象物をあんな角度から見たらきっとこんな光景だ」という予測も、多分に立つようになる。だから、体力が失われて腰も重くなってきているなか、わざわざ「あの対象物をあんな角度から眺めようとする」ことに対するモチベーションは、多くの場合は失われることになる。期待や予想の範囲内の結果が得られることが、つまらなくなってしまう。


それは何も悪いことではない。つまらなくなったことがあるということは、今まではつまらなかったことをおもしろがれるモチベーションを備えはじめたことのあらわれでもある。


自分が興味を示した対象について「渋いねえ」とか「歳とったねえ」なんて評されることがあるかもしれないけれど、それは「渋くもないし、歳とってもいない」ものたちから自分が脱却できたことを示す、よろこばしいことでもある。むしろ、そういう「歳とったもの」のほうが、その人にとっての新しさになったということだ。


すでにあるものに対してだろうと、新しく生まれてくるものに対してだろうと、それまでの自分には気付くことのできなかった価値を見つけるということは、老いにも若きにも許されている。そのことに体力が有利にはたらくこともあるかもしれないけれど、必須ではない。経験や知識がそれをカバーする、あるいは超越することもあるだろう。


年寄り臭いと思ったものを「今は時期じゃない」と遠ざけることと、おのれの未熟さを理由に踏み出さずにいることは、案外似ているのかもしれない。


新しいもの、未知のものは「こわい」のだ。若さとは、「こわがれる能力」をいう側面がある。もちろん、それだけじゃないけれど。




さっさと「こわさ」を克服してしまった若者は、強い。「強さ」を正義とするたくさんの人が、そうした若者を憧れの対象にする。だが、その定義でいくと、世の中の大多数は「弱者」である。「弱者」を無視しがちなのも、若者に見られがちな傾向だ。


「若者」であるということは、あんまりかっこいいことじゃない。などと、おっさんが何かつぶやいているよ。「こわさ」を克服した若者の中には、弱者の嘆き・つぶやきをちゃんと目や耳に入れている者もある。「若者」だった頃の僕が、決してそうだったとは思えない。あるいは、今もまだ「若者」なのだろう。




最後までお読みいただき、ありがとうごぞいます。