無人島に持っていく一冊

もしも無人島に一冊だけ持っていって一生を過ごさなければならないのならば、実用書だとか理論書だとかでなく、詩や物語のようなものを持って行きたい。それは、とても自然なことのように思う。詩や物語に、自然のことを詠うものが多くあるからだろうか。理論書や実用書にだって、自然の摂理や真理や法則のようなものを書いたものは多くあるだろう。それなのに、やっぱり詩や物語を持っていきたいと思うのはなぜか。ひょっとしたら、同じように自然のことを切り取って映していたとしても、詩や物語の方が、よっぽどでたらめかもしれないというのに。


でたらめなのに、ほんとうのことのように思えるのはなぜか。架空の登場人物に共感できるのはなぜか。動物や植物や、無機物までもがしゃべり出したり、人間のようにふるまったりするのにも関わらず、感情移入して物語の中に入り込めるのはなぜか。


そこに、「読む」力の存在をおもう。人間には、書かれたものからいろんなものを引き出す力がある。書くときに、書く人がそれと同じことを込めたとは限らない。書く人が込めたこと以上のことだったり、ひょっとしたら、書いた人が込めたつもりのないようなものさえも、読む人はときに引き出してしまう。だから、無人島に持っていくのなら、そうした詩や物語を選びたいと思うのかもしれない。


あるとき、僕は、少なくとも僕よりは歌や物語や文学に詳しいであろう人に、ある短歌の本の魅力について尋ねたことがある。すると、その人は教えてくれた。読むときのその人のこころによって、作品から受ける印象がまったく違うのだと。たとえば、若いときと、年老いたときの二度、同じ作品を読んだとしても、その作品に対して、自分の持つどのような経験を結びつけるかが違ってくる。だから、同じ物語を読むという体験でも、若いときに読むのと、年老いたときに読むのでは、まったく違った読書体験になるはずだと、僕は彼のことばをそう解釈した。




無人島に持っていけるようなことばは、僕の中にも眠っている。起きてるものもあるだろう。家出して、どっか行って帰ってこないものもある。先に無人島に行っているのかもしれない。




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