もしもお金があまったら

お金のことでまず思うのは、子どもの学費やらなんやらのことである。いくらでも自由に使えるお金があったら……というとき、まず子どもの将来のための貯蓄というのが僕の頭に浮かぶことだ。自由に使うだなんて、その次、いや、その次の次か……なんて思ってしまう。


「その次の次」なんていうからには、「その次」があるということか。病気をしたときとか、家を修繕したりあるいは引っ越したりかはわからないが住まいに関する何かがあったときなどのために、やはり貯蓄はあっあほうが良いように思う。学費以外にだって、子どものあらゆることにお金がかかるだろう。それらすべてをまかなうような貯蓄を築くためには、現在の僕の収入では心許ない。明らかに不十分である。この収入の不十分さを今後どのように解決していくかが、今の僕が抱える課題だし、今の僕のほとんどの行動の根幹にある動機になっている。


そうしたもろもろをすべて棚にあげてよいとして、自由に使えるお金があったとしたら、何につかうだろうか。


・釣り旅行に明け暮れたい

・インドとか南米とかヨーロッパとかアジアとかあらゆる気になる諸外国への旅行がしたい

・自前のスタジオを建設したい

・自前のスタジオに容易に出入りできる住居を建設したり、引っ越したりしたい


なんてことが思い浮かぶ。


ただ、こんなことをほんとうに心の底からしたいと思っているのかどうか疑わしい。「自由につかえるお金があったら」なんていう状況が、現在の僕にとって非現実的な状況だからこそ浮かんでくる邪念だともいえる。いや、それはそれでよいではないか。邪(よこしま)だなんていったら、純粋な願望に失礼かもしれない。そもそも、そんな純粋な願望に強いて横やりを入れるような設問なのかもしれない。なかなか、無邪気な問いなようでいて、波風を立たせる問いかもしれない。憎めなくて、正直で、非現実的であるうえに、現実的な問いである。


「お金があったら、もっとお金を生み出すためのお金にする」という発想は、なかなかいまの僕にはないものだ。いや、僕にとっての「お金があったら」が、結果的にさらなるお金を呼び込む原因になる可能性を否定するものではないが、基本的に「自由なお金があったら」なんてことで僕の頭に浮かぶのは、「浪費」である。それは、学びや教養になる側面を否定するものではないけれど、やっぱり自分がよければいいという類のものだということに気付く。それは、やっぱり浪費といっていいだろう。


「有り余るほどのお金」を、「有り余るほどの才能」に置き換えたらどうだろう。だれもが認め、その才能をいかすことで、お金も人脈もどうにでもなってしまうような才能があったとしたら……。学びや食事が行き届いていない人たちに、それらが行き渡るように、そうした世界になるように……なんてことがまず頭に浮かぶ。ほんとうにそうなったら、僕はそのためにできるあらゆることを考え、実際におこなうだろうか。なにせ、「余るほど」なのだから。




なんにも存在しない空間というのはなかなかない。目に見えなくても、なにかがある。まったくなにもない空間が生まれようとする前に、そのスペースめがけてなにかが滑り込む。風が吹き込むみたいにして、ならされるのだ。いまにも「真空」みたいなものができてしまいそうな歪みも、長い長い目で見たらきっと一時的なものだろう。そのひとときばかりを、壁に画鋲でなにかを張り付けるみたいに、留めおく程度の力を僕らは持っている。美観的に気になる壁……が、世界のあちこにあって、美観とかいってる場合じゃなく、崩れかかっている壁もある。壁がないほうが、風通しが良い場合もあるだろう。


自分の身近なところにあったりなかったりして、僕を思い悩ます「壁」がいかに低くちっぽけなものか……ということは、頻繁に思い出す。だからといって、そうした小さなひとつひとつの「壁」がどうでも良いわけじゃない。小さなひとつひとつが合わさって、大きな「壁」をつくる。「壁」が低ければ、見通しくらいは良さそうなものだけれど、小さな壁に見合って、僕の身の丈も小さなものだから、やっぱりそれなりの「壁」なのである。


「自由なお金」を考えだすと、自分のちっぽけさが見えてくる。




とりとめのない長文を、最後まで読んでくださり、ありがとうございます。