たとえば、それは野球かどうか。

いつも、今のままじゃいけないと思っている。


どれだけ徹夜しようと、どれだけその場の食欲にまかせて顎を動かそうと、なにもなかったかのように元どおりになることが若さだとしたら、それは儚く短い間のみの特権かもしれない。


いくつになっても「若い」と言われるような人がいる。そうした人たちがみな、いくつになっても前途のような特権を持ち続けているかといえば、そんなことはない。彼らのことを「若い」と言わしめるものがなにかといえば、「在りかた」みたいなものだろうか。どう在るかというところで、彼らは若いという評価を欲しいままにしている、欲しているかは別として……


新しいものにどれだけ好奇心を持ち続けられるかというところが、その在りかたに関わってくる。


正直になった本音のところで、どうしてもその魅力を理解しきれないものが、誰にとってもあると思う。そのときはそれで仕方ないけれど、ずっとあとになったときに、ふと、かつて良いとは思えなかったものの魅力に気づく瞬間がある。そうした瞬間をその人に贈る原因をつくっているのが、好奇心なのかもしれない。


いつも、今のままじゃいけないと思っている。一方で、今のままでいいとも思っている。じぶんを拒んでいる。じぶんを受け入れている。


じぶんを受け入れるということは、それまでのじぶんの好奇心のたまものを、良いほうに評価することだ。「ありがとう、今日までのおれよ、きみが好奇心を発揮し続けてきてくれたおかげで、いまこの瞬間のおれがある」……ということだ。


じぶんを拒むということは、好奇心が好奇心のままでいるために必須のことだ。きっと、昨日までのものを昨日までのまま受容してしまっては、好奇心は枯れてしまう。というより、昨日までのものごとを、そっくり昨日までのままでは受容させないようにはたらきかけるものこそが、好奇心なのかもしれない。生きている限りは、大なり小なり、かならずやそこに好奇心が存在している。それが、生きるということの根底にあるのではないか。もちろん、おれは、わたしは違う、という人もあるだろう。呼びかたが違うだけかもしれない。


生きているから、とまっていない。

生きているから、枯れていない。


野球をしているから、ボールを投げている。

野球をしているから、バットを振っている。


みたようなことを言っているのに等しいけれど、そういうことなのだ。


ボールを投げていても、野球をしているとは限らない。

バットを振っていても、野球をしているとは限らない。


同じように、とまっていないからといって生きているとは限らない。

枯れていないからといって、生きているとは限らない。


どんなことばをつかっているかの違いでしかないかもしれない。いやいやそれ、野球してんじゃん。おまえ、生きてんじゃん。とおっしゃる人もあるだろう。


好奇心とは、何ものか。

それ自体すら、気になってしまう。


とまれない性分なのだ。生きている限り、つきあい続けることになる。





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