死に至るまでの瞬間、ハッピーか。

じぶんが死ぬときに、ハッピーエンドだったかバッドエンドだったかなんて、どうやって決めるのでしょうか。


ほんとうにあの世にいくそのギリギリの瞬間に、「おれの人生はハッピーエンドだ」と思いさえすれば、その人の人生はハッピーエンドだということになるのでしょうか?  そもそも、まさに逝こうとする瞬間に、そのような思念が頭をよぎることがあるのでしょうか?


ひとりの人について追いかけ続けたとしても、そのときによって、その人はちがいます。あるときに人は、天才にも馬鹿にもなるし、いい人にもわるい人にもなります。だれかにとって、気持ちのよい人にもなれば不快な人にもなるし、大人っぽくもなれば子どもっぽくもなるでしょう。理論家になったかと思えば、感情的な気分家さんにもなります。


そうして、ある瞬間についていえばハッピーにもなるし、アンハッピーにもなるでしょう。


この世を去る瞬間に、みずからの人生のすべてをすっかり分析してしまって、しかるべき基準に照らし合わせた結果、「よし、おれはハッピーに逝ける」「だめだ、後悔が勝る」などと判断ができるでしょうか?


じぶんの人生のすべてを、最新のじぶんが残らず持っているとも思えません。ヒトはじぶんを、じぶんの外側に置いて去ることで生きているからです。仮に、最新のじぶんがこれまでのすべてのじぶんを残らず持っていたとしても、それを分析するのに十分な時間が逝く瞬間にあるとも思えませんし、それを判断するのに完璧な基準の存在など、もう幻想も幻想でファンタジーもびっくり(?)するほどのファンタジーです。


死ぬことはハッピーかどうかなどと問うことが、そもそもおかしいのかもしれません。哲学上の問題と思われがちなもののなかには、「そもそも問うこと自体がおかしい」のひとことで片付くものがあるようです。


「総合的に判断して、死に至るその瞬間にハッピーでいる」ために生きているわけでもないでしょう。


いま32歳の僕に、仮にあと50年間の人生が残っているとします。82歳に至った瞬間にピッタリ逝くと仮定して、


①81歳と364日23時間59.5秒から、82歳で死に至る瞬間までの0.5秒間


②この世に生まれたときから、死に至るまでに過ごす82年間



①②どちらも、おおざっぱにいえば「死に至るまでの瞬間」なのです。「死に向かっていく過程」こそが生なのだと思うと、ああ、やっぱり前言をくつがえすようですが、「死に至るその瞬間にハッピーでいる」ために、僕らは(すくなくとも、僕は)あれこれがんばって生きているのかもしれません。0コンマ何秒だって、長いように思える何十年間だって、同様に「瞬間」とみることができてしまうのですから。



明日、死ぬかもしれない。


これは、今の僕には、わかっているようで、わかっていないことなのかもしれない。


疑いようのないほんとうさえも、真に受けらるときとそうでないときがある。


ひとりの人について追いかけ続けたとしても、おんなじ人が、そのときによって違うことを言うだろう。



ああ、だから生きるのか。


そういうことにして、この稿を結びます。






最後までおつきあいいただき、ありがとうございます。