《コインをランダムに置いてください》

僕の両親は、旅行好きだ。本人たちがそう思っているかどうかはわからない。僕の目には少なくとも、そこそこ好きそうに見える。


幼いときから、けっこういろんなところに両親に旅行に連れて行ってもらった。覚えているものもあれば、忘れてしまっているものもある。


観光地で、生計を立てて暮らす人がある。観光客を相手にしたものもあれば、その他の産業・工業に従事する人もある。


観光地でなく、ありとあらゆる僻地に、命あるものが暮らす。「僻地」なんて、僕に言われる筋合いはないだろう。大変な失礼を申し上げた。


親から受け継ぐものは、いろいろあるだろう。土地   住居?  お金?  才能?  仕事?  人脈?  全部が全部、受け継いだものともいえる。


子は、親から受け継いだものが基準になって、世界を順次、知っていくことになる。親がいなければ、他の何かが親代わりになるだろう。「親」という表現が適切でないというならば、「親的な何か」である。


「親」あるいは「親的な何か」から受け継ぎ続けてきたことの結果、「いま」がある。どうしてこのようになったか?  を知るには、自分や自分の先祖のルーツを辿ればいい。


受け継ぎ続けてきたものを、いつ放り出して故郷を出たって良かったはず……なのに、先祖から自分に至るまで、なぜずっとここに居続けたのか?  選択しているようでいて、そもそも選択肢なんてなかったようにも思える。


ここにいれば、ひとまず明日も生きられる。その見通しが立つ状態の価値がいかに大きいことかを思う。それが、明日やあさってレベルじゃなくもっと先、何ヶ月か先だったり、何年も先だったりすればなおさらだ。たぶん、よっぽどのことがない限り(仮によっぽどのことがあっても)おおかた大丈夫だろう、生きられる……という見通しが立つ場合、生きられるかわからない場所や境遇や環境を求めてわざわざ行動することは、命を危険にさらすかもしれない。やっぱり、命あるものは生きようとするのだ。より生きられそうな方を、なんとなく選べる能力が、大なり小なり多くの人に備わっているように思う。


自死の問題を語ろうとすると、そこに別の論点を加える必要が出てくるだろう。自死を選ぶ人にとっての「生きようという意志」には、自死を選ばないような人たちが一般的に「死」と呼ぶものが包含されているのではないか。そもそも、一般的にいう「死」を選ばずに済むものならば、そうするだろう。生き続けるか死ぬかという選択肢がある中で「死」を選んだかのように見えたとしても、「死を選ぶ人」の中では、やはりそうするより他なかった、そもそも選択肢などなかった、といえるのかもしれない。


世界中のいろんなところに、いろんな暮らし方をしている人がいる。散らばっている。選択肢などなく、そうなったのかもしれない。少しでも「明日も生きられそうな方を選ぶ」ことの積み重ねが、今の世界の命あるものの分布であるようにも思えるけれど、命あるものがいつも客観的に合理的な選択(仮に選択肢があるとすれば)をできるとは限らない。その者にとっては、少しでも「明日を生きられる選択」が、実は他の者の目には「大冒険」のように映るかもしれない。つくづく、人間は「都合の良さ」に従って生きているのではないと思う。むしろ、「都合の良さ」に従えないことがある、そんな生き物なのだろうなと思う。人間だけじゃなくて、あらゆる命あるものがそうだろう。


あるスペースに、《コインを「完璧にランダム」に置いてください》と言われても、おそらく人間はあまりうまくできないだろう。ついついバランスをとってしまって、すごく偏ってコインが存在する場所とか、コインがぜんぜんない場所とかができないように置いてしまうのではないか。機械に「完璧にランダム」を演じさせたら、ちゃんと局所に偏りができるだろう。それが、おそらく「演じられた完璧なランダム」だ。


命あるものに「秩序」はつきまとう。「自然」の一部として「秩序」と「無秩序」の間にある存在が、「命あるもの」だ。かれらが時間の流れに背中を押されて突き進んだ結果、世界中に「命あるもの」が散っていったのかもしれない。


なんで?  の理由に、終わりがない。「いま」とは、「もういっか」の別の言い方のことである……などと言ってみる。



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