「がんばれ」の意味

「がんばれ」という言葉に敏感になってしまうような人が現れた。そんな出来事があった。そんなことがあってか、詞の中で「がんばらなくてもいいよ」と歌うアーティストが現れた程である。


「がんばれ」という言葉に、もともとそれほど重い意味が込められているようには思えなかったためか、「がんばれ」を禁句かのように扱う風潮は、個人的には少し行き過ぎのように感じていた。


ただもちろんそれも時と場合によることは言うまでもない。本当に自分の力だけではどうにもできない絶望的な状況に追いやられている、まさに今その最中にいる人を前に、無配慮にかけて良い言葉ではない、というのは確かに一理あることだろう。


そうした、ある特殊な状況というのは、歌にするにせよ報道するにせよ、題材として取り上げやすいだろう。「いま、〈がんばれ〉が重い意味を持つ。」そう言われたら、ちょっと気になって、その報道やら表現やらの内容をもっとよく見てみようと思うかもしれない。


言葉には、その言葉が往来する人と人の間の関係性を、両者に自覚させる機能があるのかもしれない。同じ言葉が、ただの挨拶にもなれば、激励にも叱咤にも蔑みにもなる。


誰かに何かを伝えようとして用いるのが、言葉だ。それが、もともとの言葉の機能かもしれない。


誰かに対して言っているようで、実は自分に対してのつぶやきのようなものだったりもする。ただの「反応(反射)」として、言葉を発することがある。息を無意識に吐くかのように。それくらい、言葉は僕らに密着した存在でもある。


抽象的な言葉だとか、広義な言葉を、どう発したりどう受け取ったりするかは、その人による。シンプルでありふれた言葉ほど、反対の意味にとらえられかねないくらいの幅を持っている。


「ありがとう」といっておきながら、顔に「余計なことをしなくていいのに」と書いてあったりですね。「ごめんね」と言っておきながら、「なんで私が謝ってんだ?」というようなもやもやが胸の内に渦巻いていたり、いなかったり……ちょっと、言葉の具合が悪くなっているときがあるのかもしれません。からだの具合が良くない、などと言い表すみたいにね……




過敏さと鈍感さに、言葉がまたがります。読んでいただき、ありがとうございます。