嗜好・試行・思考

自分の両親の結婚披露宴の写真を見たことがある。父親や、父親の近くにいる人物がたばこを吸ったり持ったりして写っているものがあったと記憶している。


いま、僕の暮らす街において、禁煙の場所が多くなった。駅のホームなんかは全面禁煙で、それが当たり前のようになっている。


僕が小さかった頃は、まだ駅のホームに吸い殻入れが置いてあったり、実際にホームで吸っている人がいたような気がする。僕が今32歳なので、「駅のホームは全面禁煙が当たり前」みたくなってから、きっとまだ30年未満だろう。


ところで、僕は昨年の11月くらいから、酒を日常的に飲まなくなった。それまでは、毎日自主的に何かしらのアルコールを飲んでいた。


きっかけは、健康診断で「今のところ心配なし」的な評価をもらったことだった。「今のところ」ってことは、そのうち、その限りでなくなるときが来るってこと?  おまけに、「脂質代謝異常」かもしれないといったような所見が記されていた。


そういった評価をくだされたことが、妙に悔しくて、許せなくて、おまけに不安を胸の内に呼び込んだ。自分がかつて「健康おたく」を自負していた時期すらあったことを、ふと思い出した。


もともと決して多くはなかった酒量をさらに控えることが、僕の体質にいったいどれくらい良い影響をもたらすのかはわからない。


でも、自分の生活習慣が自分の健康を少しでも害するおそれがあるのならば、それを変えることは厭わない。


 それまで毎日、カクテルをつくって飲んでいたけれど、その配合からアルコールを抜いてみた。果汁や何かしらの風味のついたシロップを、炭酸水で割っただけの飲み物だ。アルコールを抜いても、相変わらずおいしかった。


晩酌が、自分にとっての幸福だと思っていたこともある。でも、それは間違いだった。もう少し精確にいえば、そこに、アルコール成分は必須ではなかった。むしろ、余計だった可能性すらある。


何に急かされるでもなく、ゆっくりと飲み物を楽しむ時間は、アルコールがなくても成立する。僕は、飲み物の種類はなんでもいいようなのだ。ハーブティだって好きだし、ココアも好きだ。昼間は、コーヒーをよく飲む。


お酒が幸せの渦の真ん中にあるものだと思い込んでいた時からしたら、今の僕の状況は、ちょっと信じがたいかもしれない。


ここで冒頭のたばこの話に戻るけれど、たばこを吸うことが、現在の自分の幸せにとって欠かせないことだと思っている人がいたとしても、それは不変じゃないはずだ。案外、たばこも、幸せな時間を演出するための小道具くらいのものでしかないのかもしれない。ニコチンだとかタールだとかの依存性が話を難しくする可能性については、ここでは触れないでおくけれど。小道具をちょっとずつ別のものに置き換えても、相変わらず幸せな時間を過ごせるかもしれない。それを探るために、自分を試してみるのは、面白い実験だと思う。


かつて僕はビールが大好きで、毎日飲んでいたが、ある日、それを炭酸水を用いたカクテルに替えた。昨年11月頃には、それからアルコールを引き算して、ただの炭酸ジュースのようなものにした。これをハーブティに替えたり、そもそも何も飲まなかったりする日も、この頃ではよくある。


「好き」というのは、ただの思い込みである場合がある。お酒が好きだとか、たばこが好きだとか、言葉の問題でしかない場合もある。思えば僕は、お酒が好きだと思い込んでいただけかもしれない。もっと言えば、色んな種類の飲み物さえ、「好き」というわけではないのかもしれない。


習慣に取り入れているからといって、それらのもの全部が「好き」とは限らない。出逢いのときに「これは好みだ」と感じたとして、それを能動的に取り入れている「意識」を失って、ただ「習慣」に組み込まれてしまったときに、「好き」という感情は失われている、あるいは忘れられているのかもしれない。


それを踏まえて、何かと付き合いつづけるかどうか、更新の取捨選択の機会をこまめに持つことは、自分の人生にとって有意義かもしれないと思う。



話が長くなりました。最後まで読んでくださって、ありがとうございます。今後とも、あなたの取捨選択の結果、おつきあいの続く仲であれば幸いです。