交雑する妖精

臥せっていることでさえ、創意の源になる。


災害。病気。離別。苦しいこと、むずかしいこと、困りごと、悩みごと。そういったものは、創意の源になる。満たされた環境でおいしいごはんを食べて「ああ、しあわせ」というよりも、どういうわけか、「わたしは、つらい、くるしい。不快、不幸。呪ってやりたい、壊してやりたい。不条理でしかたない。憎くて、憎くて、たまらない」というものたちのほうが、創意の源になるようである。


苦しいのにも慣れちゃうって


そういうものたちも、その状況が定常のようになってしまってくると、だんだん麻痺してくるようである。対比や落差、ギャップといったものを感じると、かたちにしやすいのだろう。受け取るほうも、理解がしやすいのだろう。なにかをつくろうとする場合、そうした状況にみずからを仕向けることで結実することもあるだろう。意図的にそのようにしているうちに、コンスタントに何かを創り出すようになるのか、もしくは生来そのような姿勢であるからして、コンスタントに何かを創り出すようになるのか。どっちが先かは問題でないのかもしれない。


うつしあい


犬にも風邪ってうつるのだろうか。種族が違っても、あるものを共有することによって、似たような影響をうけることがあるのだろうか。ありそうな気もするし、程度にもよるだろう。ウィルスや菌的なもの以外でも、姿勢だとか気風だとか性質だとか、そういったものも、場や経験を共有したものどうしで、似てくるのかもしれない。そういうものを、「ミラーリング」だとかひとことで片付けてしまうことができたとしても、なんとなくそれをしてしまいたくないと思うわたしがいる。


ぼんやりとした妖精


ぼんやりとしか見えないものがあったとする。それを、はっきり見ることができる人もいるだろう。意図的に、ぼんやり見られるように仕向けているのかもしれない。そのフィルターの存在を知ってか知らずか、意図の壁を取っ払ってものごとを観測できる人もいる。そういう人は妖精キラーかもしれない。


妖精のしっかりとした自立


妖精キラーの存在に感化され、妖精たちも変わっていく。しっかりと見せることで、妖精性がうしなわれていき、次第に人間との区別もつかなくなる。妖精も、中指立てたり毒づいたりするのである。あなたのとなりにも、妖精がいるかもしれない。



予防注射しても、国境警備隊を置いても、鍵をかけても、交雑は防げない。



一体なんの話なのやら……読んでくださり、ありがとうございます。