バクとアリクイ

開墾や開拓は、大仕事だ。大変なことでもひとことで言いあらわせてしまうのが、言葉のやさしいところでもあるし、あやういところでもある。


大仕事の先には、無限の如く小仕事が待っている。大木の幹の枝端には、個別で具体的なフィッティング、チョイスといった、まごころのこもったささいな仕事の積み重ねによる芽吹きがある。未踏の季節を受け入れて、ゲストをもてなすことの下地となるあらゆる活動がある。厳しい自然のなかに居心地のよい場所をつくるには、大変な努力がいるだろう。


理想のもてなしをしてくれるのは、どんなところだろうか。どんな環境で、どんな人が迎えてくれるところだろうか。何が用意されていて、何ができそうか。そうつきつめていくと、もうもてなされるところというよりは、そこに住みたいと思うのではないか。理想のもてなしを想像したとき、それを上回る環境が目の前の現実にあるとしたら、現実もかなりいいものである。


そもそも、あまりもてなされようとあやかる慢心がないためにそうなる場合もあるだろう。あれもこれもとわがままを考えれば、想像はみるみる非現実的なものになっていく。あてずっぽうな理想をどんどん連ねていくことで、現実に悪影響を及ぼすかもしれない。理想や想像にも、コツがありそうだ。夢想とは一線を画すことだろう。


あたまのなかで味わうごちそうよりも、現実で噛みしめるひとさじのごはんのほうが、うまいに決まっている。夢を食う想像上の生物がいるとかいないとかいうが、あちらにとっての夢が、こちらにとっての現実といったところだろうか。


夢みたいな現実をつくることを仕事にしている人もいて、仕事にするどころか人生を捧げているほどの人もいる。「夢みたい」と「夢」とでは、理想と現実くらいの差がありそうだ。……もう少し言い換えよう、「バク」と「アリクイ」くらい違うはずだ。僕はまだ、そのどちらにもお目にかかったことがない。


理想も現実も、おあずけのままである。などという夢想は、ほどほどでやめにしておきたい。




おつきあいいただき、ありがとうございます。現実が、理想です。