10割、たのしい。

苦労が9割、たのしみやよろこびは1割なんて言う。いや、積極的に僕自身がそんなことを言ったり言われたりしているわけじゃないけれど、そんなようなことを、どこかで誰かから(その多くが親とか先生とか上司かもしれないが)聞いたり言われたりしたことがあるのじゃないかしら。


僕は、こどもの頃、たのしいことばかりだと思っていたような気がする。でも一方で、おとなになりたいとばかり思ってもいた。制約されている、抑圧されている、思い通りにいかないことばかりだと感じていたのだ。おとなになることで、自由が手に入ると思っていた。


たくさんのつらいことの中に、ちょっとだけたのしいことがあるんだよ……という諭しかたの是非について思う。たしかに、そんなようなことを言い過ぎなのかもしれない。わたしもあなたも、きっとそんなに言った憶えがあるわけではなかろうに、どうしてこれほどまでにその言葉が、立ち塞がる感じを覚えるのだろう。


「たのしいことばかりじゃない」なんて、たのしみの最中にいる人は言わない。それはそうだ。矛盾する。ヒトは、矛盾を排除しようとする傾向があるのかもしれない。でも実際は矛盾だらけだし、それは悪いことじゃない。是も非も一体のものだからこそ、是非なんて言葉があるのだと思う。間違っているかもしれないけれど。


つらいのは、たのしんでいないだけかもしれない。果たしてわたしは、世のため人のために、身を粉にしてはたらいているのだろうか?  だとしたら、なんだというのだろう?  じぶんのためにはたらいたって、身は粉になるだろう。限りあるものなのだから。


ぜんぶ、わたしを犠牲にしてのことなんかじゃないはずだ。それはひょっとして、非かもしれない。あなたが自己犠牲の念を抱くことなど、誰も望んでいないだろう。あなたがいいようにして、あなたが笑っていることが、わたしをも笑顔にするのではないかと思う。



「たのしい」のために、がんばる。「がんばる」をふくめて、「たのしい」の一部なのですね。