ごはん、おとうふ、ヨーグルト

冷たいおとうふに、はちみつをかけて食べたことがある。もめんのおとうふだった。


どうしてそんなことをしたのだろう。それぞればらばらに食べたほうが、まだましなのではないかと思う。でもそのときのぼくは、冷たいおとうふにはちみつをかけて食べたかったのだ。別々にしたんじゃあ、ふりかけとごはんをばらばらに食べるようなものだ。そのときのぼくにとっては、そうだった。


ぼくには息子がいる。ふりかけごはんが好きな息子で、ふりかけを砂山みたいにして食べようとするので、かけすぎないように、よく妻が止めている。


息子は、ごはんの上におかずを取り分けて乗せてあげようとすると、怒ることがある。ごはんがおかずで汚れるのが嫌なのかもしれない。違うかもしれないけれど。


幼い頃のぼくは、白いごはんが好きだった。(精米済みのごはんはもともと白いのに、わざわざ「白い」なんて注釈をつけるのは、「白くないごはん」がいろいろと派生したせいである)もちろん、今でも白いごはんを嫌いになったわけじゃない。好き「だった」なんて言って、白いごはんには申し訳なかったと思う。どちらかと言えば、今でも好きだ。どちらかと言えばなんて前置きして、年をとったぼくはどうも、白いごはんに対して素直になれないらしい。


そんな幼い頃のぼくは、おかずで白いごはんが汚れるのが嫌だった。だから、ぼくの息子もひょっとしてそうなのかな、と思っただけなのである。それだけのために余計な文章をたくさん読ませて、申し訳なかったと思う。こんなぼくの文章につきあってくださっている人はきっと好きでそうしているのに違いないのに、申し訳なかったと思うだなんて、読者に対しても素直になれないのは深刻なことだと重く受け止めたい。


ところで、ぼくはコンビニでヨーグルトを買うことがある。100グラム~200グラム程度のかわいいやつじゃなくて、400グラム~500グラムくらい入っている、家庭に持ち帰って何回か、もしくは何人かで消費することを想定されたようなサイズのものを買って、その場で(もちろん店を出てから)食べることがある。


このときに、スプーンをつけてもらうことがよくある。というか、ほとんどの場合そうしてもらう。外出時にスプーンを持ち歩くことはない。もちろん、あってもいいと思う。


会計時にもらったスプーンが、小さいものだったことがある。このときは、困った。いや、実際それほど困ったわけじゃない。


400グラム~500グラムサイズのヨーグルトの容器は、小さいサイズのスプーンがすっぽり入るのにじゅうぶんな深さがある。小さいスプーンで完食を目指す過程で、ぼくの利き手の親指の第1関節やら第2関節やら、その他の指のなにかしらの節々などは、ヨーグルトで少し汚れるはめになった。そうならないように、できる範囲で努力はしたつもりだったけれど。


もうひとつ困ったときの話があって、それは小さいスプーンではなく、先割れスプーンを添付されたときの話なのだけれど、その話はまた今度にしようと思う。書きながら冗長感が高まってきたためだ。もし「読みたかったのに」と思ってくださる読者の方がいたとしたら、心から感謝申し上げたい。この小さな原稿のなかで、ぼくは読者に対して申し訳なく思う気持ちから、感謝しようという気持ちに変化する程度の成長があった。それでじゅうぶんじゃないか。



おつきあいいただき、ありがとうございます。ほんとうに。