グラデーションと精度 〜100回中100回じゃなくても〜

1度できたことでも、何度やっても成功するとは限らない。100メートルを100秒以内に走りきることだったら、僕は100回中100回達成できるだろう。だが、100メートルを10秒以内で走りきる、となったらどうだろう。一生かかっても、僕にはできないかもしれない。限られた者が、限られた条件下のみで達成できる難易度だ。


100回中1回できるかできないかという難易度のおこないがあるとして、それができたりできなかったりする機会を繰り返し、だんだんと、100回中2回、100回中10回、100回中50回といった具合に、達成できる精度が上がっていく。それを仮に、成長と呼んでおく。


子どもが1人で服を全部着られるかどうかだとか、おむつの中ではなくトイレに排便できるかどうかだとかも、はじめの精度は100回中0回である。今回はできた、前回はできたけど今回はできなかった、というようなことを繰り返して、次第に100回中100回の精度に近づいていく。僕には2歳の息子がいるが、今の彼の着衣や排便の精度は、100回中80回くらいのものだ。失敗したときばかりが目立って印象に残りやすいことをかんがみると、実際にはもう少し高いかもしれない。


死へ向かっていくすべての過程を成長と呼ぶのも自由である。どこかで、ここから先は老化だと悲嘆するくらいならば、である。


1度できるようになったことが、ふたたびできないようになっていくこと。それは、未達成の者には経験しようもないことだ。


「できる・できない」について、白か黒かの2階調で明瞭な線をひくには「100回中100回の精度」といったような基準が必要になる。


できたりできなかったりのあいだに、ぶっとくて境界のあいまいな線を引くこともできる。それはもはや、線とは言い難いかもしれないが。


おおざっぱで、おおまかにとらえていればよいことも多いと思う。自分で設けた厳しい基準に四苦八苦し、追い込まれていやしないか。


鹿の赤ちゃんは、生まれてすぐに立ち上がる。それに比べれば、人間の赤ちゃんの成長はほんとうにのんびりしたものである。


「子どもの変化は目まぐるしい」と思いがちだが、実はそうでもないのかもしれない。ゆるやかに変化するグラデーションを味わうような気持ちで、子育てしてみてはいかがだろうかと、自分に言い聞かせてみる。



お読みいただき、ありがとうございました。