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算数の問題では、答えがひとつだ。それに対して、国語の記述式の問題では、答えは人それぞれだ。


答えが人それぞれの問題を採点する場合、採点をする人によって評価が変わる。


そのことが差し支える場合は、そうならないように、だれがみても客観的な評価がくだせる基準を設けて、それに照らし合わせて採点することになる。


ではその「だれがみても客観的な評価がくだせる基準」をだれがつくるのか?


基準のうえにはさらに上の基準がある。秩序やルールがある。上にいくほど、だれか特定の者が勝手に決めたのではなく、民主的に決められたものになっているはずだ。それが民主主義の本来の姿だろう。


大喜利で、誰もが真っ先に思い至るようなあたりまえの答えを返したら、誰も笑わないだろう。「意の外側」の探ることが、大喜利において求められる。お笑いの世界全般においてもそうだろう。


このことは何もお笑いの世界に限らない。どんな分野においても、すでに開発されている範疇のことの外側を探ることが求められる。


だが、それができてないじゃん!  と笑われることさえも、芸になりうる。笑いの世界は特殊だと思う。ほかの分野でこれに似たようなことがあるだろうか?  いや、情けをかけてもらうことで生き延びている者を探すことは、容易いようにも思う。


そういったある種の「至らなさ」が、豊かさを担保しているとも考えられる。世界が固有の力を持った天才たちだけになったら、共有とか共感といったものを見失うのではないか。


天才の定義に誤りがあるかもしれない。ありがちなこと、考えられがちなことを知ってこそ、固有の考えが浮かぶ。そこで能力が広がり、技術が開拓され、文明の進歩といったような、良くも悪くも大げさなことにつながっていく。


問いを立てて、答えをさがす。生きることそのものに似ている。生まれることなしには、問いも立たないし、答えもない。


「問い」が、服を着てさまよい歩く。たまにすっぽんぽんになって、お風呂に入ったり着替えたりする。ひとりひとりが、答えの評価者であり、評価の基準を持っている。


たくさんの評価が集中する領域ができるだろう。「ここから」とか「ここまで」とか、線を引くこと。それが、基準をもうけることである。


基準線の可動性、柔軟性、延伸性といったものが、その基準の適用範囲内で暮らす者たちに大きく影響を及ぼす。


基準が自分に合わなければ、適用範囲の外側に抜け出す手もあるのだけれど、そうもいかないことがある。基準線の可動性、柔軟性、延伸性があるほうが、領域内は豊かなのだろうなと思う。



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