秘密にするほどのことはないけれど、自分の外側に漏らす情報はある程度コントロールしている。
わたしのコントロール加減で、どれくらいの範囲にどれくらいの影響が及ぶのか? それがたいした規模でないとしても、その量をおしはかりながら、外の世界と対峙している。
「なんでもかんでも語る」をしたら、どうなってしまうだろう。
語ったことに変更や間違いがあった場合、訂正のアナウンスをあらためてしなけらばならない。だとしたら、はじめからしかるべきタイミングを待って、確定した間違いのない情報だけを語るようにすれば、二度手間は防げる。二度手間のエネルギーをおそれて、わたしは出し惜しみをするのだろうか。
二度手間のエネルギーには、精神的な負担も含まれている。自分は間違いを含んだ情報をアナウンスしたということを、謝らなければならない。その軽率さが、おのれに寄せられる信頼を裏切るかもしれない。
それは、自分の尊厳に関わる。自分の尊厳がどれだけ大事なのか? といえば、それはそれは大事なもので、それに関わることで命を絶つ者もあれば、生きることに希望を見出す者もあるほどだ。
一方で、漏らしてもいい範囲のことを気軽に適宜、漏らしあえるような間柄がある。そうした間柄にある信頼関係というのもまた、ここちよいものだ。生きるうえでの充足感、幸福感にも関わるだろう。
そうしたものを地道に築き上げるのに、躍起になりがちなわたしだ。鳥にでもなって遠くからみおろしたら、なんて小さなことなのだろうと思うかもしれない。少し近付いてみたら、気付かなかったおのれの姿を目の当たりにして、恥ずかしくなる。
あー、なに言っちゃってんのね、わたし。(だだ漏れ中)
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