みなまでいうな。わかっているから。

「情けは人の為ならず」……このことわざについてわたしがどう解釈していたか、またその解釈が変わる瞬間があったかどうか、よく覚えていません。このことわざを用いてわたしが何かを語るような機会はなかったし、また他者に語られることもそうなかったように思います。


「情けは人の為ならず」の「人」の部分の解釈を変えれば、いかようにもとれます。ただ「人」とだけ言っているわけですから、「わたし」だって「あなた」だって、その両者を含めたもっと大多数、人類全体を指しているというふうにだって解釈ができます。そのことわざの意味はそうじゃないよ、ほんとうはこうだよ、といった話ではなく、あくまでここでいう「人」が何を指すのか限定する言い方がなされていない、というだけの話です。


他者への親切はまわりまわって自分にかえってくるから、情けは「他人のため」にかけるものというよりは、結局自分のためになるものなんだよ、という解釈が、ひとまず、このことわざの本来の意味だということにしておきます。


そうすると、「情けは何ものかのためになるかどうか」を「ならず」の部分が打ち消すのではなく、「人(他の人、他者の意味で)

」の部分を打ち消していることになります。ここでいう「人」が、他人なのか自分なのか、はたまたその両者を含むのかどうか、十分な説明を省きつつ、その部分を打ち消しているのです。


いちばん大事な部分が何を示すのか、じゅうぶんな説明がなされていません。それでいて、このようなことわざが生まれ、今もなお存在しています。


説明がなされていないということは、このことわざのもととなったメッセージが初めて誰かから誰かに語られた際、この前提となる情報(「人」の部分は、「他者」や「他の人」といった意味で言っているということ)が、受け手と発し手の間で共有されていたのではないでしょうか。


そこには、「関係」がみえるのです。決して、会ったこともない他人どうしの間で交わされた言葉ではないであろう、ということです。この言葉を語りかけた人が、その受け手に寄せる愛情すら感じられます。


現代においても、このことわざが交わされる間柄がどんなものかと思うと、それはきっと、おばあちゃんやおじいちゃんと孫だとか、先生と生徒だとか、上司と部下だとか、そういった間柄ではないでしょうか。


「みなまでいうことない」下地が、そこにはあります。おじいちゃん・おばあちゃんと孫の間で語られる「お母さん」は、決して2軒隣のおうちに住んでいるお友だちのお母さんのことではなく「ウチのお母さん(孫にとって直接のお母さん)」のことだし、上司と部下の間で語られる「社長」はまぎれもなくその会社における「自分たちの社長」だということです。


大事に思い合っているはずの誰かから誰かに対して語られたことばがもとになって生まれたのが、「情けは人のためならず」ということわざなのではないでしょうか。


みなまでいうな。わかっているから。


……ってね。



お読みいただき、ありがとうございました。