プロフェッショナルの処世術

下手だからこそ、その分野が好きだということがあるだろうか。上手な人に対して、下手な人が憧れを抱くというのは、ありがちなことである。


漫画を読むのが好きであっても、自分で漫画を描けない人の方が多いだろう。いや、厳密には「描かない」だけであって、下手でも何かが描けるはずだ。つまり、漫画を描くのは下手(あるいはまだ描いたことすらない)だが、漫画を読むのは好きだという人が、多かれ少なかれ存在することになる。


これは、「下手の横好き」とはちょっと違う。


わたしは、「下手の横好き」ということわざを用いて実際に何かを表現したことはない。きっと、「楽器の演奏が下手だが、それでも演奏することが好き」といった際に用いることわざだろう。先ほどの漫画の例にあてはめて言うならば、漫画を描くのが下手だが、それでも描くのが好き、という際にこのことわざが適切な表現になる。


漫画を読む行為に上手や下手があるだろうか。カミテ・シモテではない。ジョーズ・ヘタの話である。


わたしの身の周りには、読もうと思いつつ消化しきれていない本やら冊子やらがごまんとある。そうしたものをやっつけようと、文字を追うことに躍起になってしまうことがある。そう、これぞまさしく、「読むのが下手」という状態といえるのではないか。声が小さく、抑揚がなく、発音が不明瞭で朗読が下手、ということではない。そこに書かれたこと、そこに著された表現を受け取る行為そのものにも出来・不出来があるようなのである。


わたしは「読書が好き」だし、そういった人はわたしの他にもしばしばいるようである。


わたしはときに、下手くそな読書をする。たまに、上手に読書することもある。


読書をするわたしのことを観察したとして、「お、上手上手!  いまいい感じで読めてるねぇ」とか、「へったくそだなぁ、視線を動かしているだけじゃないか。表現そのものをこれっぽっちも汲み取っていない。眼球を動かす筋肉の無駄遣いだね」などと第三者が評価するのは難しいだろう。あるいは、視線や脳波を測定する精密な機器を用いてやれば、それも可能になるだろうか。


技術や知識というものがある。それがあることで「上手だ」ととらえる向きもあるようだ。


同一人物に沿って見たとき、その人なりの上手・下手のあいだを行ったり来たりしていることだろう。上手い・下手と、技術や知識の有無は、本来関係ないのである。


あるいは、「上手くやること」自体が、技術だといっていい。


だからか、技術や知識そのものが、プロフェッショナルの定義として語られる機会は多い。好きだとか嫌いだとかを抜きにして、上手くやる。それがプロなのだろう。


趣味で「プロ」をやることもできるだろう。「プロ」をやること自体を、好きだとか嫌いだとかの軸でやってしまうのだ。そういう人を、わたしは「プロの中のプロ」と呼ぶ。ごく稀にしか出会えない、貴重な存在といっていい。


この世を謳歌できれば、プロでもアマでも、ジョーズでもヘタでも、それ相応の幸せがある。感情のみを軸にすると、不意にそうした幸せを失うこともあるだろう。だから、スキだとかキライだとかいった軸と適切な距離を保っておつきあいするのも、処世術のひとつといっていい。


処世術もまた、技術なり……としたら、「処世のプロ」とかもいるのだろうか。もうどうでも良くなってきた。




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