スマートフォンに、お辞儀の角度。

それぞれの日が、それぞれいろいろあった日だったはずなのだけれど、3月11日に新たな意味が加わったのが、もう8年前のこと。


それまで不自由なくおこなってきたことがままならなくなり、失ったもののうち、取り戻せそうなものは取り戻すために走っただろう。代替になるものを探しもしただろう。どうにもならないものはそのままで、埋め合わせるでもなくぽっかり穴が空いたままかもしれない。


昨日、都内で電車に乗った。ホームで電車を待っているとき、多くの人がスマートフォンを手にして、その画面にむかってこうべを傾けていた。いったい、誰に向かってお辞儀をしていたのだろう。あの頭の角度は何°くらいだっただろう。垂直が90°だから、80°くらいか?  ……分度器の画像を検索してみた。実際、65°くらいだったかもしれない。けっこうな傾きだ。


僕の住むまちには、縄文時代の遺跡がある。そこでの縄文人たちのくらしは、およそ1000年間続いたと言われている。いまから5000年前~4000年前くらいの話だそうだ。


くらしに用いた土器に施された模様の特徴から、彼らは今を生きる僕に「縄文人」などと呼ばれることになった。


今を生きる僕のような人間を指して4000年~5000年後に名前をつけるとしたら、どんなふうに呼ぶのだろう。特徴的なこと……  スマートフォンに向かっておじぎをしたような姿勢……  仮に4000年~5000年後に僕の骨が残ったとして、それを解析したら、どんな姿勢をしながら暮らしていたかがわかるだろうか。


長い期間にわたって痕跡が残るものの特徴で呼ばれるとしたら、からだのつかいかたや通信端末の形式などといった零細なものではなく、もっと規模の大きな生活基盤の特徴みたいなもので呼ばれるだろうか。それは果たして何か。高速道路か。下水道か。豊洲だとかにみられるような埋め立て地か。あるいは案外、ガスコンロのゴトクのような、身近で生活感のあるものが出土するだろうか。そもそも、今の僕がおくるような生活が、あと1000年続くだろうか。


時の流れ。風化。そうした引き算に耐えて、残るものはなんだろう。少し、俯くのをやめて考える。


前を向いた、その姿勢。縄文人もときおり手を止めて、こんな姿勢をしたかもしれない。



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