泣きっ面に蜂蜜

「ある範囲内に、ランダムにコインを置く」ということを人間がやろうとすると、難しい。ほんとうにランダムだったら、ものすごぉく不自然にコインが重なる場所が一定確率で生まれるだろう。人間が「ランダム」をやろうとして、そうした偏りを表現するのはなかなか勇気のいることだ。確率のことを話しているのに「勇気」なんてものをひっぱりだした。つくづくわたしの論理は破綻している……ようである。


ここでいうランダムに置かれるコインが、「良いこと、幸運なこと」だったとしたら、ある確率でそれは1人に重なって起こりうるということだ。コインを「悪いこと、不運なこと」に見立てれば、それもまた1人の身に重なって起こりうる。


「泣きっ面に蜂」とは、悪いことが重なることをいう。悪いことが重なってから、すこし後になって落ち着いたときに、当時を振り返っていうような表現だろう。なかなか、渦中で本人が言えるような言葉ではないかもしれない。


落ち着いた頃に自分の身に起きた悲運の重なりを振り返って「泣きっ面に蜂」などと言えるようであれば、それはひとつその人の血肉となった経験なのだろう。「泣きっ面に蜂蜜」では、ただ甘やかされているだけである。


転んで手やからだを地面につけたところに糞があったら、かなり嫌だ。悲運が重なるといったような意味で、「転べば糞の上」ということわざがあるのは知らなかった。悲運の種類を選べるとしたら、蜂に刺されるのを選ぶか、糞の上を選ぶか……多少悩む余地のあるところである。洗い流して復元がかなうのであれば、糞の方がダメージは少ない。精神的な抵抗値は、圧倒的に「糞」の方が高い気がしてならない。



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