Andanteで回り道

音楽において「走る」という言葉が意味するのは、望ましいテンポよりも速くなってしまっている状態のことだ。どちらかといえば、悪い意味でつかうことの方が多いのではないかと思う。


走らずに歩くと、よくものが目に入る。いろんなことに気づくのである。車より電車、電車より自転車、自転車より徒歩、といった具合に、景色から得るものが多くなるような気がする。ここに飛行機がないのは、僕が滅多に乗らないからだ。地上を飛び出して上から見おろす景色からも、それはそれで発見があることと思う。


じぶんで見ようと思って見たものからは、得るものが多くなる。一方で、頼まれた仕事だからとか、誰かが薦めていたからとか、勉強のために必要だからとか、そういった外的な要因によって見んとするものから得るものは、どうしても自発的な動機から見ようとするものから得るものよりも少なくなる気がする。おもしろいと思ってやるおこないには、何ものも敵わないのである。楽しんでいる者は、最強なのだ。


車窓からの景色を「流れる」なんて表現することがある。速度のコントロールを他者に委ねている状態では、おのれの興味にしたがって足を止めたり、速度を緩めたりすることができない。どうしても、受動的にならざるを得ないのである。自動車の運転者が自分だったらばコントロールが利くけれど、他者の運転するたくさんの自動車が周囲にある場合、その交通の流れを阻害するわけにはいかないから、やはりある程度受動的にならざるを得ない。人っ子ひとりいない原野や原林に敷かれた一本の道路を自動車で行く、といったような状況ならば、その限りではないかもしれないが。


たとえば、東京から大阪へ行くとする。新幹線に乗ってしまえば、眠っていても着くだろう。一方で、何日もかけて歩いて行ったとしたら、単純に「大阪に到着する」ということの外側に、たくさんの発見があるだろう。道中、なんのために大阪に行くのか、という動機や目的をしみじみと見直す機会もあるかもしれない。途中で目的地や経由地を変更したくなるかもしれないし、出発前には思い至らなかったやるべきことが見えてくるかもしれない。どのように目的地に到達したかによって、到達後の行動は、間違いなく変わる。


時間がないから、最短距離を行く手段や方法を選ぶ。予定したとおりのことを予定どおりに消化したいなら、それは有効な手段・方法といっていい。


「急がば回れ」は、余裕のある者にしかできないことなのかもしれない。余裕なんかないけれど、自分には回り道しか選ぶ余地がないのだ……とおっしゃる人がいるかもしれないが、それしか選ぶ余地がないのならば、それが最短の道だといっていい。むしろ、もっと回れる道があるのじゃないかと疑ってもいいのかもしれない。もしその人が、余裕のある自分を目指したいというのであれば……である。


あれこれ言っている当の僕がどうかというと、どちらかと言えば余裕こき過ぎる性分であり、おのれをより追い込む手法を自分に課す方を選ぶのが、ある意味で僕にとっての回り道なのかもしれない。


も~好きにやって、という感じである。


お読みいただき、ありがとうございました。