運命の主「体」性

承認欲求なんてことばを、かつてこれほど聞くことはなかった。SNSに放り投げた一塊の情報のはしっこに設けられた「いいね」とかいうボタンにどれだけの人が触れたかということでその解決をはかるなんて、とても回りくどいことなんじゃないかと思う。


目と目が合う体験とは、強烈なものである。言葉の介在なんて要さずに、その場その瞬間でお互いの認知が成立する。対面を基本とした生活をしていたら、そもそも承認欲求なんてことばが用いられる文脈がわからないのではないか。


情報を取り入れるための器官である「目」だけれど、「目は口ほどに物を言う」ということわざの示すところによれば、その「目」こそが、持ち主についての情報を多く語るということになる。情報を取り入れる器官のはずが、持ち主の情報をだだ漏れにしてしまう器官でもあるらしい。


「口」が雄弁であるほどに、ろくでもない嘘をつく。「口」とはそもそも、本心を表出させる器官ではないのかもしれない。むしろ本心を隠したり、わからなくさせるためにある……とは言い過ぎだろうか。


そこがまた人間らしくもある。本心のとがったところをうまいこと(あるいはなんともへたくそに)丸くして、集団の一員としてつつがなくやり過ごせるようにしてしまうのである。そのおかげで、人間は繁栄し、大きな力を手にしたのかもしれない。


ところで、言葉をもたない犬猫けもの赤ん坊なんかとでも、僕は心の通じ合うのを感じることがある。言葉をもたないと言ったらさしつかえあるかもしれないが、ただ、言葉を介在させずにものを言い合えるというか、意思の疎通が可能であることを思わせてくれる。


「口」を通って出入りするのはお客さまだけで、運命を共にする者同士のあいだに、「口」は要らないのかもしれない。


お客さまとのおつきあいが人生のすべてみたいになってしまうのはどうか。運命の主体性は、自分自身にあるはずなのに。



お読みいただき、ありがとうございました。